夏侯紗別伝(1)



…泣き声が聞こえる。

またアタシを呼んでいる。

「やーい、宦官の子!」

…またいじめられてるのね。世話がやけるんだから。

「あ、逃げろ!アイツが来たぞ!」

…これだから弱いものいじめをする連中は。 アタシの姿を見たら逃げていくくせに。


…大丈夫?ほら、しっかり立ちなさい…
夏侯紗は目を覚ました。

周りを見まわしてみる。

曹操軍のテントの中だ。


「…またあの夢かあ…最近よく見るのよね」

紗は大きく欠伸をした。

「それにしても変な夢だったわね…まるで実際に体験してるみたい」

そして、身支度を整えて鎧をつけた後、テントから出て外の様子を見た。そして、彼女は『現実』へと引き戻される。

「もし、アタシが今見ている『これ』が夢で、『あの夢』が現実であったなら…」

紗はため息をついた。

「夢であると信じたい。でも、現実に起こっていることだものね」

紗の見た光景…それは、戦に敗れた軍団の惨めな姿であった。



全てがあっという間の出来事であった。

乱世平定の願いとともに出発した呉討伐。

その最中に曹操軍を襲った伝染病。

それに追い討ちをかけるようにして襲った黄蓋の火計。

…それを思い出すたびに紗の頭が痛む。

突き刺すような寒さが今見ているこの光景が『現実』であることを教えているかのようであった。
その時、敵襲を知らせる合図の声がした。
それを聞いた紗は武器を取ると、馬にまたがった。

「…しつっこい雑魚どもね!どこまで追ってくるのよ!」

彼女はそう言うと追手の中に飛び込み、蹴散らしていった。


しばらく経った後、伝令が紗のもとへやってきた。

「本陣・危険!至急救援願います!」

「!」

紗は急いで馬の向きを変えると、曹操の本陣へ向かい、駆けていった。

「殿には指一本触れさせないわよ!」

紗は曹操のもとへたどりつくと、今にも曹操の本陣へ突入せんとしていた敵軍を槍で撃退した。

「大丈夫ですか?殿」

息を切らせながら紗は馬を下り、曹操へ向かって跪いて言った。

「ケガはない。そなたがいなければ危なかった。礼を言うぞ。これからも頼む」

曹操は微笑みながら紗に感謝の言葉をかけた。

「は…はいっ!」

紗は緊張で顔を強張らせながら、感謝の言葉をかけてもらった嬉しさを心の内でかみしめていた。

曹操はそんな紗の顔をじっと見つめてからこう言った。

「最近のそなたを見ていると…顔色があまり良くないようじゃが?」

紗はハッとして、すぐに微笑んでみせ、言った。

「だ…大丈夫です!」

しかし、多くの将兵の命を奪った伝染病は、紗の体をも蝕みつつあった。
それから数日後の晩。

紗は眠れず、テントの外で座っていた。

疲弊しきった将兵達のことを思いながら。

「アタシがなんとか士気を鼓舞してここまでもたせたけど…そろそろ限界かな…。」

また、彼女は自分の体調に異変が起こっていることも薄々気付いていた。

「アタシももしかしたらやられたかな…。日を追うごとに動きが鈍くなって疲れやすくなってる」

そして、目を瞑る。

「帰れるのかな…」

そのとき、男の声がした。

「そなたもここにいたのか。余も…ここが一番落ちつく」

目を開けてみると、そこには曹操が立っていた。


「と…殿!?」

「二人っきりなのだから、昔のように『孟徳』でよかろう」

そう言うと、曹操は紗の隣に座った。
二人の間にしばらく沈黙が流れた。
その間、紗は緊張でカチコチに固まりっぱなしだった。

…なに喋ったらいいのかわかんないよ〜!…

紗はそっと曹操の方を見る。
そしてまた、目をそらす。

…な…なんでもいいからとにかく話題を見つけなくちゃ…

「ち…陳長文殿の娘さんは元気にしてるのかしらねぇ?」

…アタシったらもう少しマシな話題が出せないの!?バカ、バカ!!…

しかし、曹操は顔をしかめる様子も見せず、こう答えた。

「幼いながらなかなか利発なようだな。この間は論語を暗記したとか」

紗はこの陳長文の娘(のちの陳獅)には何度か会ったことがあった。彼女は内気そうな少女で、挨拶をした後、すぐに父・長文の後ろに隠れてしまった。
しかし、彼女の優秀さは長文も認めているし、紗も獅が兵法書を暗誦するところを目の当たりにしているので、認めざるをえないところであった。

「長文殿は『この子が成人したら治安維持方面に従事させたい』とか言ってたけど…」

「いや、それでは彼女の才を腐らせるだけであろう」

「え?」

紗は驚いて曹操の方を見た。

紗としては父親のこともあるし、あれでなかなか融通の利かない性格をしているので治安維持部門がピッタリだと考えたのだが。

「彼女には軍師の才能がある。その才を上手く使えば天下も夢ではないであろう」

「ちょ…ちょっと、孟徳!?」

紗は曹操のこの発言にまたまた驚いた。

「あの子、兵法書を暗記できるだけなのよ!?それだけでは戦はできないわ!」

紗は読書はあまり好きではなかったが、兵法の研究だけはしていた。そして、それを今までの戦で応用して勝利を得てきた。

紗は知っていた。

兵法書を読むだけでは戦はできない。

もう一つの「何か」が必要なのだ。

「彼女はそれだけではない。余も何度か会った事があるが、彼女には戦上手に必要な全ての「要素」が備わっている。余が言うのだから間違いはなかろう」

紗はこの曹操の言葉を聞くと大きくひとつ、ため息をした。


…いつかはこのアタシを追いぬく日も来るんだろうな。

それは紗に世代の交代を予感させた一言だった。
それからまたしばらく、沈黙が流れた。

その時、紗の目に空に流れ星が尾を引きながら落ちていくのが見えた。

…無事帰れますように。…せめて、孟徳だけでもっ。

紗が願い終わると、曹操が言った。

「……香壇よ」

「え?」

…どきっ。

「もう少し、顔をよく見せてくれぬか」

…どきどきどきっ。

紗が顔を寄せる。

…ま…まさか…

「こうして見ると、父上に…そして余に…よく似ている。元譲よりもそなたの方が近いようじゃな」

…まあ、期待はしてなかったけど。

それでも、少しガッカリした紗なのだった。

「…香壇、そなたにはこれを預かってもらいたい」

曹操はそう言うと、腰に佩いていた剣を外して紗に手渡した。

「こ…これは…」

紗はその剣を見て非常に驚いた。何故ならその剣は…曹操が大事にしていた宝剣・「倚天」であったから。

「これを…アタシに?」

こくっ、とうなずく曹操。

「待ってよ、孟徳!アタシにはこの剣は重すぎるわ!」

今の紗はそのセリフを考え付くのがやっと、という状態であった。それだけ紗の受けた衝撃は大きかった。

「目方が、か?そなたは軽々と持っておるではないか」

「違うーーーーーーっ!!」

どうしてこんな時にボケるんだろう、と紗は思った。そして、気をとりなおして、さっきの発言を補足すべくこう言った。

「アタシにはこの剣は不釣り合いよ、孟徳。だって、これはあなたが大切にしていた宝剣でしょ?」

しばらくの間曹操と紗は見つめあった。

「だからこそ、その剣を余だと思ってさらなる忠勤に励んでほしいのだ」

曹操は静かに言った。

「余ひとりの命に比べてその剣は軽いであろう?」

「それは…そうだけどっ。」

紗は「う〜っ」と唸ったまま、そのまま返すセリフも無く、黙っていた。

「…寒くなってきたな。余はもう行く。そなたもあまりそこにいると風邪をひくぞ。」

待って、とも言えないまま、紗は曹操の後ろ姿を見送った。



「ひょっとして…アタシの想いにすでに気付いていて、その想いをふっきらせる為に「倚天」を…?」

まさかね、と紗はその考えをすぐに打ち消した。


…一生余の股肱の臣として尽くせ。

紗には剣に曹操の意志が宿ってそう語りかけているように感じられた。


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