夏侯紗別伝(2)



「ここはどこらへんなの、文遠?」

夏侯紗は並んで馬に乗っていた張遼に話しかけた。


曹軍の退却行は未だに続いていた。

いくら進んでも山道ばかり。
今の時点ではいつまでたっても懐かしい風景が見えてこない。 つまり、安全圏はまだまだ先、ということである。
しかし、黙ったままよりかはなにか話した方が気がまぎれる。

…紗はそう考えていた。

「華容のあたりだ」

遼はそう答えた。

「まだまだ俺達の全行程の三分の一ってとこだな。樊城はまだまだ先だぜ、残念だったな」

同じく紗の隣にいた夏侯惇が横から口をはさむ。

「あーあ、まだなのかぁ」

できることなら内心早く帰りつきたい、と紗は思っていた。
病状はこの前曹操と星空の下で話したあの時よりもさらに悪化していた。
体が熱くなったり眩暈がすることもしばしばだ。
しかし、紗はその強靭な体力と精神力で持ちこたえていた。


しかし、どこまでもつか…。

「もしも」の時には置き去りになってもかまわない。
いや、許されるなら命と引き換えに曹操を…


紗がそんなことを考えていた時。

「…?」

紗はふと辺りを見まわした。

「どうした、香壇?」

「元譲、文遠…なんか…聞こえない?」

「本当だ…威勢の良い声だ…鬨の声か?」

「旗が見える…見慣れない旗だが?」

「周りの地形を見ても…なんだか不吉な予感がするの。アタシならここに…」

伏兵を置くわね、と言いかけたその時、突然両側の岩の陰から次々と軍勢が出現、攻め寄せてきた。

「敵襲、敵襲ーーー!!!」

伝令の怒鳴り声があたりに響いた。

…孟徳が危ない!!

紗は馬を曹操の部隊のあたりへと走らせた。

「おい、香壇!まてっ!…文遠、香壇の援護を頼む!ここは俺にまかせろ!」

遼はわかった、とうなずくと、すぐに紗のあとを追った。
曹操の本隊があったあたりには曹操の姿はなかった。
紗が馬を駆り、周辺をあちこち探してみても曹操は見つからなかった。手がかりすらなかった。

「孟徳!孟徳!孟徳ーーー!!」

しかし紗がいくら呼ばわっても答えるものはなく、ただ戦場のやかましさにかき消されるだけ。

「もうと…く…っ」

そのとき、道に何か光るものがあるのを見つけた。
馬から下りて拾い上げてみると、それは曹操がかぶっていた兜であった。
紗はそれを見ると不吉な予感に襲われた。
いままで一生懸命抑えていた感情。

…まさか、孟徳は…既に…

「もう…とっ…も…と…く…っ」

…なんだか小さいころの孟徳みたい、アタシ。

あふれ出る感情のせいで声にもならない。
涙が流れる。止められない。
そして、兜の上に…


ひとつぶ。



「香壇どのぉーーーーー!!!」

その時、後ろから聞き覚えのある声がした。
紗は目をこすって涙を拭き取った。


「文遠!」

「無事であったか!…もしかして泣いておったのか?」

「泣いてない、文遠!アタシ、泣いてない!」

そう言うと、紗は一つ呼吸をした後、話を再開した。

「ここに来る途中で、孟徳…いや、殿を見なかった?」

「いや」

「今回の伏兵を率いているのはどこのどいつなのかしら?」

紗にそう言われると、遼は黙ってしまった。それからしばらくして、彼は重い口を開いた。

「関羽殿らしいのだ」
かんう。関羽。

一時期曹操の配下にいたこともある。
マジメだったけど、その一方で自身過剰で傲慢だった。

なんか好きになれないな、というのが紗の初対面の時の印象だった。

忘れはしない。
関所を破って曹操のトコから逃げた時。
関羽によって夏侯惇の部下が殺されたというので、追跡隊が編成された。それを率いることを願い出たのが紗だった。

惇の独断の行動であると知りつつも、である。

紗には関羽に対して激しい殺意を抱いていた。
紗は曹操が関羽にべったりなのが不満であり、激しく嫉妬した。
そして、この手で関羽を殺す機会に恵まれることを願ったのである。



紗は愛馬「夢幻」を駆って関羽に追いつき、数十合打ち合いを続けた。しかし、その一騎討ちは後から来た張遼によって中断された。

「『関羽殿をお通しせよ』との殿の命令だ。逆らえば貴殿は罪に問われることになろうぞ」

その言葉を受け、仕方なく紗は引き下がった。


帰還後、紗は惇とともに曹操に怒られた。



紗としても、このような曹操の気に入りようだから、殺すよりも、生け捕って曹操の前に差し出すことの方が得策なように思えた。
しかし。

…やらなきゃウチらは滅ぶ。

それは紗もよく理解しているところであった。

…やっぱりあの時殺っとけばよかったのよ。

紗は思った。
後に彼女は「樊城において曹仁が苦戦している」という報を受けた時、同じ思いを抱くことになるのである。

「とにかく今は孟徳を探さなきゃ。一緒に来てくれるわね、文遠?」

遼は黙ってうなずいた。
二人が曹操を探していると、ある歩兵の一隊が走っているのが見えた。彼らは次のような事を話していた――

「俺たちゃどこへ行くんだったっけ?」

「曹操らしき人物を見つけたってよ。で、守ってる奴がめちゃくちゃ強ええんで、その増援だ!」

「おっかねえなあ、命がいくつあっても足りんぞ」

「馬鹿言え、手柄をたてて出世する良い機会じゃねえか。そいつも大分傷を負ってるっていうし、上手く曹操の首を取れれば…」

それを聞くと紗はすかさず叫んだ。

「そこの雑兵ども!待ちなさーーーーいっ!」

紗は遼とともに雑兵の一隊を蹴散らし、雑兵達のうちの一人を槍の柄で突いて地面に倒した。
――みぞおちにクリティカルヒット。
相手がもがいているうちに紗は馬を止めてそこから飛び降り、雑兵の首をつかみ、動きを封じた。のこりの雑兵達は恐れをなし、散り散りになった逃げていく。

「はぁ…はぁ…さあ、言いなさい、曹操様はどこ?」

紗は手に力をどんどん加えていく。

「言えば郷里に帰れるように取り計らってあげる。報酬も約束するわ。でも言わなければ……まあ予想はつくでしょうねぇ。そして、アタシは他の有力候補を探すだけ」

そう言われると、雑兵はとうとう口を割った。


紗は雑兵を近くにいた同僚に預けた後、雑兵の情報に従って進んだ。

そして、一人の大男が敵の軍勢を相手に戦っているのが見えた。

曹操の親衛隊長・許仲康である。
「あら、もう終わり?」

紗がふと気がつくと、敵兵はいなくなっていた。

敵部隊は紗と遼と仲康の攻撃で壊滅状態に陥っていた。
あるものは殺され、あるものは戦意喪失して逃げたり、などなど。
紗は言った。

「仲康、殿はどこ?」

あちらにおられる、と仲康は近くの岩陰にもたれかかり、倒れているひとりの人物を指で指し示した。
それはまさしく曹操であった。

「孟徳!!」

紗は曹操のそばに近づいた。
意識を失っているようであった。…少なくとも死んではいない。

「よかった…よかった。孟徳…会いたかった」

再び涙が流れた。思う存分泣いた後、目をこすって曹操の状態をみる。

「足が矢に刺さってる」

紗は注意深く曹操の足から矢を抜き取り、自分が巻いていた鉢巻を取って包帯代わりにした。

「仲康、文遠…あなたたちもケガしてるじゃない」

紗はマントを引きちぎって仲康と遼の包帯に使った。


さて。

紗は鞍に引っ掛けておいた曹操の兜を手に取り、それをかぶった。そして、近くにいた味方兵のひとりに命じて曹操のマントを外させた。そして紗はそれを身につけた。

「何をするつもりなのだ、香壇殿?」

不思議に思った遼が聞いてきた。

「まさかオトリになって敵を引きつけているスキに殿を逃がすとか?」

仲康は自分の思ったことを口にしてみた。

「オトリになる…ってとこまでは合ってるんだけどね」

紗はそう言って馬に乗った。

「アタシがこうしているのは一つは殿の無事を全軍に示すため。もう一つはアタシがオトリになって関羽をおびき寄せ…殺るためよ」

「そんな、危険だぞ!」

「文遠、あんたは殿を守ってて!」

「香壇殿!…私は大丈夫だ。殿を安全な所まで送り届ける。それより文遠殿は香壇殿の援護を」

この作戦に賭けてみたい、という仲康の感情が読み取れた。

「わかった。一緒に来て、文遠。仲康、殿に何かあったらアタシが承知しないわよ!」

仲康はわかった、と大きくうなずいた。紗はそれを確認すると、遼とともにその場を去った。


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