…例え刺し違えることになろうとも関羽を殺る。 夏侯紗の決意は固かった。 紗は曹操から託された「倚天の宝剣」を抜くと、上に向かってかざした。そして、護衛の兵に「帥」の旗を持たせ、味方の軍のまっただなかを駆けていく。そして、護衛兵にこう言わせるのだ――― 「殿は無事である!皆のもの、続け!」 効果はてきめんだった。 味方の士気はある程度は鼓舞されたのである。 味方と敵の乱戦のさなかを駆け巡っているうちに、ひとりの敵将が近づいてきた。そして、長い髯を持つその敵将は紗のすぐ近くで馬を止めた。 「曹操殿…では…ない!?おぬし、何者だ!?」 相手は一瞬、混乱しているふうであった。 紗は兜を取り、投げ捨てて、そして剣を鞘におさめるとこう言った。 「しばらくね、雲長ぉ?」 「…元譲殿の妹か」 その敵将・関羽――字・雲長――は、紗の顔を見るとようやく思い出したようであった。 「今日こそアンタを討つよ!いざ!」 その紗の言葉を合図にして、二人の戦闘は開始された。 しかし、体調が悪いのは隠せない。 紗もそのことについては百も承知であった。 さらに、これまでの戦闘による疲労も重なり、紗の体力と精神力は限界を越えようとしていた。 それにもかかわらず、この戦闘に臨んだのは何故か。 紗にはある奥の手があった。 しかし、それは賭けにも等しいものであった。 それを実行する機会に恵まれれば…。 羽は打ち合っているうちに、紗の異変にうすうす気付いていた。 …槍さばきにキレがない。 羽は打ち合ってる間にも、冷静に紗の様子を観察していた。 …コレが勇名をとどろかせたあの夏侯香壇なのか? こんな状況を説明できる事柄はたったひとつしかなかった。 …外傷も無い。とすると…病か。 そして羽は打ち合いをやめて少し後退すると、こう言った。 「これは驚いた、曹操軍に人無し、か!このような病人を従軍させるとは!」 この言葉を聞いて紗の心は怒りに燃えた。 どくん。 見かねた遼が飛び出そうとした。 しかし、紗は遼を睨みつけて制止した。 「文遠、手ぇ出すんじゃないわよ!」 という意志表示である。 視線を羽のほうに戻す。 「ざ…」 どくん。 羽はガハハハ、と笑っている。 「ざけんじゃ…」 どっくん、どっくん。 「ん?」 ぶちっ。 「ざけんじゃないわよ、この髯面ぁ!」 次の瞬間、紗は 槍を捨て、 剣を抜き。 そして、羽の肩に一撃をくらわせていた。 まったくの不意打ちであった。 「こんなものでこの関雲長が殺されるというのか?」 羽は肩の傷口を押さえながら言った。 いたって冷静だ。 「そうね、手当てが遅かったら…ヤバいかもね」 紗が与えた傷は羽の頑強な肩を貫通するには至らなかった。 しかし、紗にはそれで十分であった。 紗はそれが曹操を…そして、全軍を救う一撃になることを確信していた。 なぜなら――――― 紗はそれを思うと、勝ち誇ったような笑みをもらした。 「おぬし、何故笑っている?」 「わからないかしら?確かに鎧で身を包んでいれば大きな傷は受けにくいでしょうね、でも…」 紗はなおも笑いつづけた。 「…体の中身まではどうかしらね?一点から…敵が崩れることも…あるものよ?」 …まさか!!! 羽は一瞬にしてその笑みの持つ意味を理解した。 「おのれええええええ!!!!」 逆上した羽は紗に向かって槍の一撃を繰り出した。 紗は観念した。 …ま、戦場に散るのは武人の本望ってやつね。 そして、目をつぶる…。 「危ねえなあ、おい」 紗への一撃は横から繰り出された戟で受けとめられていた。 「元譲殿!」 …え?元譲? 紗はおそるおそる目を開けてみると、元譲がいた。 そして、彼の戟で攻撃は防がれているのが見えた。 「まったく…文遠!コイツの面倒をしっかり見とけって言ったろ!?」 惇はそう言うと、羽の方に方向転換した。 「悪りぃ、香壇はいま調子が良くねぇ。…というわけで、俺が相手だ!かかってきな!」 しかし、羽は傷口を押さえたまま、動こうともしない。 …変だな。 惇は少しとまどった。 「…おのれ…あの女…剣に…剣に…」 羽の顔は苦痛にゆがんでいた。そして、ぽつりとこう言った。 「…医者にみせんともたんな」 惇にはこの状況になった理由が理解できなかった。 「おい、退却だ!全軍にそう伝えよ!」 羽はそう言うと、馬をかえし、退いていった。 「おい、待てよ!部下の仇はまだ取ってねえぜ!」 しかし、惇は強いて止めることはしなかった。 そして、紗のほうを振り返る。 「終わったぜ、香壇。まったく…ムチャしやがって……って、オイ!どうした!?」 振り返ると、紗は馬から落ちて、地面に倒れていた。 惇は紗の額に触れる。 「すげえ熱だ…おい、しっかりしろ、香壇!!」 「おい…文遠、見ろよ」 惇が紗の持っていた剣の先を見せながら遼に言った。 あの戦いから一時間後。 惇と遼は木陰に横たわっている紗を見守っていた。 「毒が塗ってあるぜ!…アイツも考えたもんだな」 「香壇殿は自分の病気に気付いていたのだろう」 遼がしずかに紗に視線を向ける。 「そして、このままでは足手まといになると思い、あのようなことを…そのおかげで我らは救われた」 「まったく、たいした奴だよ!…おそらくあれが関羽にとっても渾身の一撃だったんだろうな」 惇はそう言うと、ふと視線を紗からそらした。そして、こちらへ向かって近づいてくる人影に気付く。 「お、孟徳」 「殿!おケガは?」 「余は大丈夫だ。それより、香壇は?」 曹操はそう言うと、紗に視線を向けた。 「今は落ちついてる」 「そうか…そなたら、少しの間席を外してくれ」 「ああ、わかってる。…ごゆっくり!」 そう言うと、惇は遼を伴ってその場を立ち去った。 「…香壇」 曹操は紗の額をなでた。 そして、静かに語りかけた…。 …覚えておるか?余が董卓を討つべく挙兵した時のことを。 …あの時余はこう言ったな、「しかし、お前が女なのが残念だ。男であったならそなたを誘ったのに」と。 …あのことはすまないと思っている。小さい頃そなたに守ってばかりであったからな、「男としての意地」が出たのかもしれん。 …しかし、お前は家出してでも我が軍に馳せ参じて来てくれた。 …以来、余はそなたに助けられてばかりだ。 …もし、もし許されるなら… …一度だけ、余にそなたを守らせてほしい。 その時、紗がうっすらと目を開けた。 曹操がそっとその手を握る。 紗はその手を強く握り返した。 紗別伝(4)へ 企画TOPへ |