「なんでダメなのー!?」 大きな声が突然、夏侯家をゆるがした。 「…もうちょい静かにできんのか、香壇…。」 耳をふさぎながら、夏侯惇が言った。 「なんで元譲がよくてアタシがダメなのよっ!女だからって理由だけで『行くな!』なんて、オヤジの考えはおかしいよ、絶対っ!」 「しょうがないだろう、父上がそう言うのだから…」 「オヤジのせいで行けないのなら、アタシ、家出してでも行くんだから!孟徳お兄様の力になりたいんだからね!」 「おい、香壇…!!」 惇は止めた。 しかし、止めても無駄だし、喧嘩で(口でも、格闘でも)香壇に勝ったことがない惇にとって、彼女を止めることは無理な話であった。 「まったく…アイツらしいな」 惇は諦めたように力無く笑った。 大声の主は夏侯紗、字は香壇。夏侯惇の双子の妹にして、曹操の従妹でもある。 小さい頃から武術に慣れ親しみ、とくに弓術が得意であった。 彼女が今回、家を飛び出したのは、久しぶりに帰ってきた従兄・曹操の一言がきっかけであった。 「反董卓の兵を挙げる」 少帝を廃し、陳留王を帝に立てて権力を手に入れた董卓は都を恐怖の渦に陥れていた。その董卓を討とうというのである。 「しかし、お前が女なのが残念だ。男であったならそなたを誘ったのに」 紗はこのセリフにムッとなった。幼いころから慕ってきた従兄が自分の武術の腕を高く評価しているのに対して嬉しくなった反面、女だからというだけで自分が不当な扱いを受けていることに彼女の心は炎の如く燃えた。 「どんなことがあっても、お兄様にはついていきます!」 そして、父に許可を求めたが許されず、こうして家を飛び出した、というわけである。 「アタシだって、夏侯嬰の子孫なんだから!」 夏侯紗は荷物をまとめると、家出同然で曹操の出兵に従った。 それ以来、夏侯紗は曹操配下として各地で素晴らしい戦績をあげた。 その後、夏侯淵とともに漢中の守備につくことを命じられた。 「孟徳お兄様に会えなくてつまんな〜い」 夏侯紗はため息をついた。 「しかたねえよ、香壇姉ちゃん。殿の命令なんだから。」 夏侯淵がそれに答えて言った。 「なんか元譲が孟徳お兄様を独占してる感じよね。…というか、絶対そうよ!寝室に出入りできるしさあ…あ〜あ、アタシのこの想いはいったいいつになったら届くのかしら?」 …また始まった。 淵がそんな紗の様子をみていると、物見の者がドタバタと駆け込んできた。 「敵がこちらに向かって進軍中とのことです!!」 敵は劉備軍だった。 曹操は紗・淵・張儁乂らに漢中をまかせ、自身は東へ帰っていった。 そのスキをついて攻めてきたのである。 以来、一年間、両軍は対峙を続けたが、決着がつかなかった。 ある日、敵軍に自陣の逆茂木を焼かれた、という報告が入った。 「やってくれるわね…。」 紗が遠くを睨みつける。 「と、なると士気が低下しねえか心配だな…」 淵が唸る。 その後、劉備軍の猛攻は激しくなり、あちこちの方向から攻めてくるようになった。敗戦続きで味方の士気は低下していった。 「援軍はまだ来ないのでしょうか…」 儁乂が疲弊した表情で言った。 「このままでは我が軍はもちませんっ…!」 次の瞬間。 ピシャ!! 「バカっ!!」 紗が儁乂に平手打ちをくらわせていた。 「香…壇殿…?」 紗はすぐにはっと我に返ったようすであったが、すぐに言葉を続けた。 「孟徳お兄様…そう、殿はアタシたちを信頼してここの守りを命じたのよ!殿の信頼に応えるためにもアタシたちがここを死守しなきゃなんないでしょ!」 それから淵の方を振り向き、言った。 「アタシの言う事間違ってる?…答えなさい、妙才!」 淵は静かに口を開いた。 「いや…姉貴の言うとおりだ。このままでは操兄に会わす顔がねえ」 その後、紗と淵は自陣の東の囲いを、儁乂は南の囲いを守る事になった。 「大丈夫かな…?」 紗が少々不安の色を見せる。 「陥ちたらおわりだ」 妙才が簡潔に答えを返した。 そのとき。 「張将軍、敵の挑発に乗り、突撃!さんざんに打ち破られた模様!」 血塗れになった伝令が駆け込んできた。 「あの、バカ!」 紗が怒鳴るような調子で声をあげた。 「これで南側が手薄になった…こっちは防衛で手一杯…救援に向かわせるような戦力なんて無いわよ!」 「行け、姉貴!」 え…? 紗は瞬時に淵の言葉の意味を理解したが、それでも信じられない様子であった。 「妙才…アンタ……今なんつったのよ?」 「姉貴は儁乂の救援に行け!ここの半分の兵力を率いてな」 「…しょ…」 紗はしばらく次の言葉が言えないようすであったが、一息ついて落ちついた後、言いなおした。 「正気なの、アンタ!?敗戦続きで疲れてるんじゃないの!?」 正直、正気の沙汰とは思えなかった。ここの兵力の半分を救援に向かわせれば、こちらが手薄になる。そうなれば、いくら妙才といえども… 「正気だぜ、俺は。俺を誰だと思ってるんだ?」 淵が自身ありげにニイっと笑った。 「姉貴がいてもいなくても俺には大差ねえ。だが、儁乂は今必要としているんだ。違うか?」 そして、弓を紗のほうにつがえた。 「早く行け!まだぐずぐずするようなら、たとえ姉貴といえども……射殺するぞ!」 その目には涙をためていた。いまにもこぼれおちそうな様子だ。 「わかったわよ!」 紗は馬に乗った。そして淵の方を振り返った。 「…武運を祈ってるわ。死ぬんじゃないわよ!」 紗は馬に鞭打ち、駆け出した。 「雑魚ども、どきな!死に急ぎたくないならね!」 張儁乂が敵の策略に気付いた時には手遅れであった。 挑発にのせられ、出てきたところをさんざんに打ち破られ、戦況はすこぶる不利である。 このままでは、陥落も時間の問題であろう。 そのとき、軍勢ががこちらに向かってくるのが見えた。 もはやこれまで… せめて華々しく散ろうか。 そう儁乂が思った一刹那の後。 敵軍が突如散っていくではないか。 その中に見えるのは「夏侯」の旗。 それが自陣に向かって動いていく。 先頭にいた将がこちらに向かって叫んだ。 「間に合ってよかったわねえ、儁乂!」 先ほどから太鼓の音が聞こえる。 「うるっさいわねえ…しかも夜中に!寝不足は美容の大敵なのよ!」 紗はイライラしているようだ。 「これはきっと挑発でしょう。間違っても乗ってはなりません。この私が…いい例ですから」 儁乂はいかにもきまり悪そうだ。 その時、伝令が息をきらして駆け込んできた。 「大変です!!」 儁乂が何か伝令と話している様子であったが、しばらくすると紗のほうに戻ってきた。顔面蒼白になって。 「香壇殿…恐れていた事が起きてしまいました。」 紗の表情が強張る。 「わかってるわ…妙才が…死んだんでしょ?」 淵の軍は太鼓により士気の上がった黄忠とかいう老将が率いる軍により壊滅状態にまで追いこまれ、淵と息子の栄が討ち死にしたとのことであった。 こうなった今、撤退を余儀なくさせられるであろう。 儁乂はただただ号泣するばかり。 自分が不甲斐ないばっかりに、と自分を責める。 紗はそんな彼の様子をしばらく見ていたが、突然、口を開いた。 「いつまでもいい男がビービー泣いてんじゃないわよ!アタシだって泣きたいのは同じなのよ!」 幼いころから…兄弟同然で暮らしてきた従弟が死んだのだから。 涙をぐっとこらえて、紗は言った。 「あのジジイにこの屈辱、百倍にして返してやるわよ!」 だがしかし。 その翌年、黄忠爺さんはあの世へ旅立ったのである。 ほぼ同時期に黄忠に策を授けたという参謀・法正も没した。 紗としては怒りをむける対象が無くなったわけである。 「アイツの首級をあげないまま…アタシはあの世でどの面下げて妙才に会えばいいのよー!!」 紗はだれに向けるともなく怒鳴った。 そんな日々が続くうちに、悪いニュースが追い討ちをかけるようにして紗に襲いかかってきた。 従兄・曹操が没し、あとを追うように兄・夏侯惇が没したのである。 「結局、片想いで終わりかぁ…ま、それも良いよね」 曹操が没した直後は、紗は彼女のこれまでの人生の中で一番泣いた。 さんざん泣き尽くした後、ふと彼女は考えた。 …お兄様はアタシの血と心の中に息づいている。 …「アタシの中のお兄様」を想うことでお兄様を想っていることになるのかな?… …いや、元譲にお兄様を取られちゃったんだ。 …それとも、お兄様が元譲を取っちゃったの? …あ〜、もう、わけがわからなくなってきちゃった。 …お兄様と元譲は畳の上で、妙才は戦場で…アタシはどうなるんだろう? …古の豪傑達はみんなこんな想いを経験したのかな? …とにかく、アタシは西を守ろう。…そうすることがお兄様や妙才…そして元譲への供養だと思うし、お兄様を想うことの表現なんじゃないだろうか? それからさらに月日が経ち…。 ここは街亭。対・蜀の最前線である。 「まったく、あの馬謖とかいう将もおろかですね。山上に陣を敷くとは」 儁乂は蜀の陣営を見回して言った。 「諸葛亮もたまには間違うのねぇ!」 夏侯紗は儁乂のそばでクスクス笑う。 「さて、香壇殿」 儁乂は紗の方を見てニッと笑った。そして、こう言った。 「…するべきことはわかっていますね?」 紗がすぐに答えた。 「包囲して叩いて引っ掻き回すわよ!」 その後、作戦の説明があり、儁乂が武将たちひとりひとりを呼んで役割を伝えていた。しかし、紗の名前が呼ばれる事は無かった。 不満に思った紗が儁乂にくってかかった。 「しゅんがい〜、アタシは〜!?作戦にも参加できないわけ?」 膨れっ面である。 それに動じる様子も無く、儁乂は言った。 「一隊をさしむけ、ある武将を挑発します。その武将は怒って出てくるでしょうから、貴方は指定された地点に行き、その武将を討ち取ってください」 「…と言われて来てみたけれど…」 紗は自分の部隊を率いて山の麓に陣取っていた。 「いつまで待てばいいのよ…あ〜あ、今ごろ主力部隊が活躍してるわね…」 紗があくびをしかけたその時、一人の敵将がこちらに向かって突っ込んでくるのが見えた。 …暇つぶしにちょうどいいわね。 紗はその敵将へ向かって馬を走らせた。 「我こそは沛国の夏侯香壇!敵将よ、名を名乗れ!」 すぐさま相手も返す。 「我は黄漢升の子息、黄叙!逆賊よ、覚悟せよ!」 あいての名前が判明して、 あ、なるほろ。 …と紗は思ったものである。そして、儁乂にちょっぴり感謝した。 カッコつけすぎよね。…でも…アリガト! 両者はすぐに戦闘を開始した。 二人は数合打ち合った。 両軍勢は固唾を呑んで見守っている。 …こいつ…けっこう持久力あるじゃない…。 紗のほうには疲れが見え始めていた。 打ち合っているうちに疲労がたまり、とうとう紗は自分の槍を落としてしまった。 しめたな、といったぐあいに相手が攻撃をかけてくる。紗はかろうじて自分の剣を抜いて防御した。それから、馬を返して退却を始める。 「卑怯者!名が泣くぞ!」 相手が追跡する。 紗は相手をある程度引き離した後、剣を鞘に収め、それから弓をつがえた。 「かかったわね!」 次の瞬間、黄叙の体は矢に貫かれた。 叙は馬から落ちた。 …やったの? 全ての兵士がどよめく中、紗は叙のほうへ近づき、馬から下りて叙を見下ろした。 …あいては急所を直撃され、息絶えていた。 即死だった。 紗は叙の首を切り離し、こう叫んだ。 「敵将・黄叙、討ち取ったりぃ!!」 今日は墓参りである。 亡き妙才の墓前に黄叙の戦死を報告し、その首を供えるため。 「…おそくなっちゃったわね。黄忠のジジイがもういないからコレで我慢してくれる?」 紗は墓前に黄叙の首を供えると、だれに話すともなく喋りだした… …あの後引き取ったアンタの息子たちだけどね、立派に成人したよ。やっぱりアタシの教育方針が良かったのかしら?…なんてね。 …え?なんで忠の首をもってこないのかって?バカね、アタシが墓荒らしをするわけにはいかないじゃない! …アンタの墓参り、これで最後になるかもしれないんだ… …アタシね、西の方面に常駐することになったんだ…アタシがお願いしたの。 …あ、怒ってる?でも、アンタのことを忘れたわけじゃないのよ! …なぜだかわからないけどアンタが散った西の地…それがアタシを呼んでるって…そんな気がしたの… 「ひがしがこいしくないの?」 突然、独白は中断された。 振り返ると、新人の武将・徐椿が立っていた。 彼女は徐晃の娘で、紗とも仲が良い。 紗は椿のほうに向き直り、首を振って笑いながら言った。 「恋しくなんかないわ。だって…西を守ることがアタシの生きがいであり、つとめなんだから。」 そして、空を仰ぎ見てこう言った。 「お兄様…見ててくれてるわよね?」 企画TOPへ |