陳獅伝


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陳獅・・・字 瑠璃 陳羣の娘である。



 暗い霊廟に朝日が差し込んできました…
彼は…私の側にいる。…いえ、私が彼の側にいる…。
彼はだらしなく大口をあけて眠っている…私も少し…頭が痛い。
私は少し…このだらしない男との思い出に浸ることにしました・・・・・・静かに…深く目をつむる…。


 彼の父親が若くして病死した時、私の父は三日間何も食べなかった。自室に引きこもり、私にすら会おうとしなかった記憶がある。
私が生まれる前……彼の父がまだ生きていた頃、かなりの放蕩者だったらしく品行も修めようとしなかったため、私の父が丞相にその旨を訴えたことすらあったほどらしい。
……それでも改まらなかったようです。父はそんな放蕩者の死を心から悲しんだ……当時は子供心ちょっと不思議に思ったけれど…今ならわかる気がする。


 彼と初めて会った時…それは潁川の名士が集まる所へ父に連れて行かれたとき。
私が覚えたての経典を声に出して読んでいたらいきなり抱きかかえられて外へ連れていかれたのです。
抵抗すらできずに外に連れ出されて…強引でした、恐怖のあまり声も出せず半べそ状態だったことを覚えています。
そして私は数人の少年がいる所に連れて行かれました…私を連れ去ったのも…どうやら同年代の少年だとはじめてわかりました。
彼は少年らにむかってこう言いました。
「おーい、どうだ。俺の将来のお嫁さんを連れてきたぞー。」
ざわつく少年たちを前にしてもう訳のわからなくなった私は、私を連れ去った少年に渾身の力を込めて平手打ちを頬にくらわせて…大泣きしながら道もわからずに走って逃げ出しました。
…途中、散歩途中の荀攸様に見つけていただいたので無事に父の下に帰り着くことができた…ということを覚えてます。


 後になって、私を連れ去ったのが郭奕だということがわかりました。
このことを父に話すとたいへん父も驚き、不審者の取り締まり強化を私に約束するとともに、小さな璧をお守りにくれました…それを今も私は大切に持っています。
華美とはいえないけれど深い緑色が美しい壁で…今では私の一番の宝物です。

 数年たち、私が私塾に通いだすと…偶然の一致とは恐ろしく、郭奕も同じ塾に、同じときに入ってきたのです。
会うたびにあのことを思い出し、彼をにらみつけるという日が続きました、父にこのことを話しても彼の父が死んだ後で気がひけたか何かで
何も行動を起こしませんでした、それどころか彼を家に招いて食事をしたり書物を貸したりしはじめたのです。
私はいずれぼろが出ると思い、事の成り行きを静観していましたが…彼は非常に私の父の前ではおとなしくしていたのです。
これがまた彼を憎む一因となりました。また、父に対して少なからず不信感を抱くようになったのです。

 そんな私も成長し、勤勉であることや内政手腕が期待できること、何より父の影響で公安を司る役所の一役人に就任しました。
私は世の中を安寧にするには「礼」を実践することだという信念を持っていました…礼といっても難しいことではなく、道行く人に快く挨拶をする
これだけで充分に実践されたといえるでしょう。こうやって快く挨拶をして、世の中の無用な対立を生み出さず、徳化を進めていく…
これが公安のためになると信じていきました。
この考えは広く受け入れられ、町から挨拶の声が絶えることは無く、近隣の住民の間での親交も深まったという話を聞き、とても嬉しくなりました。
 そしてこの役人になってから、郭奕を追いかけまわす日々が始まったのです。
酒を飲んでは町を騒ぎ歩き…歩きながら餅を食べ…女性関係は節操無いことこの上なく…神出鬼没でしたいほうだい。風紀を乱すことこの上ない!
私の信念からそれを許すことができず…前述のように追いかけっこが始まったのです。

 「伯益さん!お待ちなさい!!」
「おー、久しぶり瑠璃。どう、元気にしていた?」
「げ…元気にしていた…じゃあなくてですね。伯益さん、最近のあなたは…」
すこし注意しようとする私を制して…彼はいつも逃げる。
「おっと、用事を思い出してしまった…それじゃねー」
と、ストレートに逃げ出すこともあれば…
「父が危ないんだ、頼むから今日は見逃してくれ」
と、言われてやられたと気がつくこともあれば…最も酷いときには
「あ゛ー!お嬢さん!!危なーい!!」
と、叫んだかと思ったら…いきなり私を抱きかかえて町中を爆走!!
「わはははははは!」
「嫌ぁぁぁあああ!!」
叫ぶ私がへとへとになるほどに彼は私を抱いて町中ひきまわして…いい恥さらしです…。
すっかり叫ぶ気力すらなくなり腰が立たなくなったところで…彼は私を家の門に捨てていきます…。
2度や3度ではありません…、そんな私を…父は静かに笑っていました。


「と…父様…。笑い事ではありませんわ!」
「ふふふ、まあよいではないか。仲がよくていいことではないか…ははは…。」
「ま…父様…。もう、知りませんっ!!」

こんなやりとりも少なくなかったはずです。

 そのころ伯益とはいろいろな場所で遭遇しました。
それは時として偶然に、またあるときは待ち構えていたかのように…彼はあらゆる場所に出現しました。
歓楽街を見回る時はまずいました、酒を飲んで完全に泥酔し私が介抱したり、介抱を頼んだ事もよくありました。
その他にもあらゆる私塾や市場、また私がたまに薬を持っていく施薬院のような所にまでいて…何だか彼は行く先々で人気があったそうです。
というのも彼はそういうところで子供と遊んだり、乱暴だけど喜捨行為を行ったりしていて…あらゆる人々を虜にしていたのです。
 ところが月初めは不思議なことにどこを歩いても絶対に見当たりません。
「月末会とでも称して…飲んで潰れているのかし、…ふふふ。」
実際に彼の行きつけの店(といいましてもたくさんありますが)に聞いてみると月末は彼は取り巻き連中、さらにはそのほかの人も一緒になって飲み歩くそうです。
ある日、私が遠出して昼夜兼行で家まで帰っていたとき、日の出前に比較的新しい霊廟へ入ってゆく郭奕を横目で見ました。
その日は月始…、後でわかったことですがその霊廟は郭嘉…つまり彼の父親の霊廟なのでした…。


  この頃、荀イク様が不慮の死を遂げて名士達が混乱を見せ始め、丞相様がその位を公…そして王と進めていかれる中、名士たちの混乱が次第に深刻になっていきました。
それを父が潁川の名士筆頭としてまとめあげようと必死になっていた時ですので…突然父はとても忙しくなったようです
父の部屋には昼夜問わず人が集まって何か話をしていたり…手紙を書いていたり…難しい書物を読んでいたり…寝食を忘れているようでした。
そんな父を私は少しでも見習い、上部が混乱すると下層部も混乱する、これを少しでも防ごうとして、ますます礼を重視しました。
挨拶に加えて、人を信頼することを教えてきました。「世の中は決して悪い人ばかりではない…」これをひたすらに教えていきました。
父やそのた大勢の人の努力にもかかわらず、混乱は次第に広がりをみせはじめ、町の治安は次第に悪化していきました。
暴力に訴えて弱者から金品を奪う集団もあらわれるようになりました。
私はそれを直接取り締まるため、わずかながら護衛兵を連れて町を見回ることも多くなりました。

 そんなある日のこと、護衛兵を連れて町を見回っていたいたとき前方から喧騒が聞こえてきましたので…兵を連れて進みました。
そうするとなんと、手配中の盗賊10人ほどが倒れて縄をかけられているではありませんか、そしてその前には砂埃だらけの郭奕とその取り巻き連中がいました…。
「…か…郭奕。」
「ぃよう。へへへ…どうも最近この町も汚れてきたもんでね…。人様の迷惑になるし…気楽に飲んでもいられなくなったから掃除してやった。後片付けは頼んだぜ。よし、みんな、これから酒場へ凱旋だぁ!」
おう、という威勢の良い声とともに郭奕達は街中へと消えていきました…。
少し前くらいから、このように手配中の犯人が公安局へつれてこられたり。町でお縄になっていたりするといったことが増えてきましたが…どうやらこれも殆どが郭奕がやってくれたということがわかりました…。
郭奕に会ったらお礼を言おう…と思っていましたが、これ以来伯益と会うことは不思議となくなったのです、お礼をいう機会もないままに時間がすぎていきました。

 町の馴染みの茶店でで少し休憩をとっていたときのことです、いつものように茶店のおばさんと話をしていました。
「瑠璃さん、あなたはちょっと伯益さんのことを悪く言いすぎだよ。あのこはあのこで…かなりいいとこがあるんだから。現にこの町からならず者がいなくなったのはあのこのおかげなんだから…わかっているでしょう。」
「それは充分に分かっているつもりですけど、あれを好き勝手のさばらせておくのは…しめしがつきませんわ。」
一気にお茶を飲み干す……むせた。
「あらあら、瑠璃さん。あんまりむきになるものじゃありませんよ。ほらほら、おちついて…。本当に仲のよいことで…」
「ケホッ…ケホッ…。うう…、そういうことは…断じてありませんっ。」
いつものようにとりとめもない雑談をしていたら…いきなり戸口が開いて私を呼ぶ声がしました。
「失礼っ!瑠璃様はこちらにおいででしょうか??」
護衛兵の一人がやってきたのです。
「いきなり来るとは…何です?何か重大な事態でも起きたのですか?」
「はっ、ならず者どもがやつらの頭領のの解放を求め…公安局、その他施設に押し寄せております!」
「わかりました、向かいましょう。一緒に来てくれますね? それとおばさん、ご馳走様でした。」
あ…えぇ。と呆気にとられるおばさんを尻目に、私は護衛兵を連れて公安局へと馬を走らせました。

 私たちは途中、不幸にもならず者の一団に遭遇しました。そのなかの一人がこう叫んだのです
「あ、あいつは陳獅!おい、みんな見ろ。陳獅だぜ!!」
一斉に私に視線を集中させるならず者たち…。そう私は公安を司る役人として、治安維持にもあたるために現場で指揮をとることもあったから顔を知っている者が知っていてもおかしくないのです。
多勢に無勢、劣勢と判断した私は逃げ出しました。当然のごとく追いかけてくるならず者たち、逃げ切れると思ったそのとき運悪くまたもならず者の一団に出くわして、挟み撃ちを受ける形となりました。
血路を開こうとした護衛兵は引き倒され、後方から喚声が聞こえてきてまさしく絶体絶命と思われたその時…後ろから忘れられない声が聞こえてきたのです
「瑠璃ー!!瑠璃ー!大丈夫かぁ!無事かぁ!!」
そう、郭奕が手勢をつれてやってきたのです。すでに後方から迫ってきていたならず者どもを打ち倒し、私を追って来てくれたのです。
「下がってろ!瑠璃!よし、行くぞ!!」
郭奕が指示を与えると手勢はなにやら陣を組み、石つぶてを投げたり突撃をかけたり、倒れる賊に縄をかけたりと、見事な戦いぶりをみせたのです。
指揮系統がしっかりとしていてとても成り行き任せの戦いとは思えませんでした…、私は自分の置かれた状況も忘れ、ただその見事な采配に見蕩れていたのです。
・・・幸いこの騒ぎ自体は早く収束しました、この反乱に呼応するような動きもなく、夜までにはまた町は平穏を取り戻したのです。
「…あの、伯益さん…。また今日も助けていただきありがとうございました。」
「へぇ、瑠璃が俺に頭を下げるなんて珍しい…、熱でもあるんじゃないのか?」
彼の手が私の額に触れる…寸前に…避けた。
「まっ…折角お礼を申し上げようとしたのに…無礼な…。…でも、今日はおおめに見てあげましょう。どうです?た…たまには私のところで夕食なんて。」
「んー。これはまさしく滅多にないことだ…熱どころか気が狂ったんじゃないのかな、悪いけど俺はちょっと今日は忙しいからここで失礼。」
そそくさと去っていってしまいました。
「・・・、もう。折角誘ったのに…馬鹿…なんで断るのよ…何で…。」
私は仕方なく家路につき、父にこのことの顛末を報告しました。ならず者が蜂起した件、不覚にもその時に役所を離れていた件。そして郭奕が手勢を率いて助けにきてくれたこと…全てを話しました。
私が話し終わると…父は一瞬困ったような顔をして…むー、だとか。んー、だとか二、三回唸って空を見ながら…こう言ったのです。
「うむ、瑠璃よ。そのー、持ち場を離れていたりしたりするのは別にワシはかまわんと思っておるが…。あのだなぁ、郭奕と表で…いや、あまり人目につくところで会うのはできるだけ控えてほしいのだ…、いや別に会うなと言っている訳ではないのだ。そのー、できるだけ彼のためにも…そしてお前のためにも、会うのは今後控えてほしい・・・。」
「な…何故です、父様?何故そんなことを…」
驚いた、あれほど郭奕を大事にしてきた父様がこんなことを言うとは思わなかったから…それも突然…。
「ん…、瑠璃よ。説明してほしいか…」
無言で肯く。
「うむ、では説明しよう。これはお前がこれから中央に出たりするときに関わってくるだろうからな…心して聞くがよい。よいな、我々は俗にいわれるところの…名士であることはわかるな。」
「はい…名士とは地方の豪族として地方に根付くだけでなく、徳行などにより知名度を上げ、その存在を広く漢土に知られている存在で、その権勢の基盤は主に名声にある者…。と私は認識しております。」
「大凡あたっているな、そう。我々は名声によって成り立っていて…儒教の教えをその行動原理としている。そして…我々は…誰に仕えていると思う?」
「・・・それは天子たる帝…ひいては漢王朝に仕えていると思います。」
「よいぞ、それで当たっている…しかし…先祖代々漢の禄を食んでいる私が言うのも心苦しいが…漢の時代はもはや終わりを告げようとしている…ふぅ…何を話しているのだこの私は…瑠璃…すまんな。ついつい関係のないことまで話してしまった…な。」
父はまたここでもうひとつ大きなためいきをつきました…毎日このことで悩むあまり…ついつい口に出してしまったのでしょう。荀イク様のようにはならないようにしなければなりませんし…。
「いえ、父様が荀イク様亡き後、その名士を代表する存在として来る日も来る日も改善策を考え…心を痛めていることが伝わってまいりました…。」
「うむ…できるだけそのことに関してはお前には苦労をかけぬつもりだ、安心しなさい。…で、郭奕についてだが…、知っての通り彼は不幸にも父を早くして亡くしてしまってな…父親の名前は…ワシは終世忘れぬだろうな。郭嘉…字を奉孝といったな…。」
そこでしばらく父は話すのを止めた…いがみ合っていたと言う話もよく聞いた…喧嘩するほど仲がいいとはこういうことを言うのでしょう…それとも何でも死んでいい人だったのにとなったのかもしれません。…喧嘩するほど仲が…、…まさか…ね。
「おお、いかんいかん。昔の思い出に浸ってしまったわ。で、郭嘉は非常に才能がある男だった。軍略もあるし情報を冷静に分析して未来に起こることをまるで予言するかのように言い当てていったのだ。奴ほど天才はこの先にも後にも滅多に現れないだろう。」
軍略…私はその日の昼のことを思い出しました。無駄のない取り巻き連中の動き、正確な采配…それは今思い出しても見事なものだといえるでしょう。
「しかし…まぁ完璧な人間はいないもんでな…郭嘉は…そのー…品行があまりよろしくなかったのだ。あまりにもその行いが放置するに余ったものでたくさんの名士がワシの元を訪れてな、魏王に訴えるようにと言ってきたのだ…。まぁ、ワシもちょっと目に余る所があると前々から思っていたので…魏王に代表して訴えたのだな。まあワシもそれくらいで変わるような奴ではないということは充分に承知していたし、個人として奴の才能に感服していたのだ。しかし…ワシも名士を代表する一人としての体面もある…表では奴に対して少し辛口なことを何度も言ったもんだよ。…しかし、心の中では私は奴を尊敬していた…。厄介なもんだよ、名士というものも・・・かえって体面を気にしなくちゃいけなくなって…自分の本当にしたいことができなくなってしまうんだな…。」
「・・・。」
私は黙って聞いていました…黙って聞くしかできなかったのです。郭奕の父親と私の父はただいがみ合っていたとしか聞かされていなかったのです。父は続けました…
「で、郭嘉はあまり評判はよくなくて…一部の人間はすごく嫌っていた。才能に対する嫉妬もあったのかもしれないな…そういう奴らは郭嘉の追い落としに出た。しかし魏王の信頼が厚いこともあって、その工作はことごとく無駄に終わった…。その時代は…我々名士にとっても魏王と蜜月の関係にあり…いい時代だった。」
「…まだその頃は魏王様が司空のころで…権威が確立していなかったのですね。」
「そうだ、魏王は権威を増すために漢王朝を利用し、またそのために名士の協力も必要としていた。…しかし、袁紹が倒れて次第に魏王の権勢が増してくると…三公を廃して自らが丞相についた。そうするとさらに高みを目指して「公」の位を目指そうとされた。その際に…名士の筆頭であった文若殿が抵抗して不慮の死を遂げたのはお前も知っているだろう。…いや、何も言わなくてもよい。ここから魏王と我々名士の仲はギクシャクしはじめた。魏王による…反乱分子の粛清がはじまったのだ…つい先ごろ、魏王に就任しようとした時…崔季珪殿が殺された。もはやワシでさえもその一言動に気を使わなければならなくなった時代なのだ…今は…。」
名士と君主権力がそれぞれ相反す勢力であることは私もわかっていた。そしてそれが最近顕著になっていることも…うすうす気がついていた。刑場の露と消える人も多くなった…まさか郭奕も…いえ、そんな筈は…。彼がそんなことを…する筈が…。
「そこで、今回どうして郭奕と会ってはいけないかというと…、実はな。ワシは少し前にこんな話を耳にしたのだ…『かつて郭嘉を糾弾したものが郭奕を追い落とそうと暗躍している…。』とな、郭奕は一時期魏王から保護を受けていた時期もある。讒言程度で魏王が郭奕を処罰することは無いと思う…しかし、今は時代が時代…魏王は疑心暗鬼になっておいでである。万が一ということもありえるので、彼にあまり徒党を組んで町に出歩かないようにと釘をさしておいたのだ。勿論、騒ぎもあまり起こさないようにとも言っておいた…が、この騒ぎだ…郭奕が徒党を組んで役所を荒らしていたという妙な評判が立つかもしれぬ。そしてその評判がよからぬことにつながるやもしれぬ。そしてその場にお前が居合わせた…お前は証人として表に出ることもあろう。下手に郭奕と会うとお前にまで不幸が及ぶ可能性まであるのだ…。」
父はここで一息ついた
「・・・と、これが理由だよ。まったく名士というのは我ながら厄介なものだ…評判に左右されて…したいこともできやしない…ははは。」
力なく父が笑った…やはりどことなく疲れているようだ…。
「…わかり…ました、父様…。伯益とはあまり会わないようにします…、それが彼のためにもなるなら…。」
「おお、瑠璃。わかってくれたか・・・ありがとう。郭奕にかかった疑いが晴れたり…魏王が昔のように戻ってくれたらもう自由に会ってもいいからな。それまで…辛抱してくれ。」
「はい…」


 不思議なもので伯益と会わなくなってから一日が過ぎるのがとてつもなく遅く…町が平和すぎて不謹慎ながら張り合いがなくなってしまったのです。
それにしても…伯益が私の夕食の誘いを断ったのは…やはり彼も自分の立場をわかっていたからだということに気がついてきました。
そしてそれに私を巻き込まないようにとの配慮があったと思うと…袖を濡らさずにはいられませんでした…
「・・・いつまで続くの…こんな苦しい日々が…。」
名士なんか…名声なんか…地位なんか…家柄なんか…私にはどうでも…いい…、ただ…会いたい、会ってどうするなんてことではなく…ただ…会いたい…。

 
 そして…その月のおわり…私が月間報告書をかいていたとき最も恐れていた事が起きたのです。公安局に郭奕を捕らえるべしとの令が下ったのです。
罪状は先ごろのならず者どもの反乱に加担した…とのことで身柄を拘束するように…との令が下りました…。
私は信じられなくて、仕事を放り出して矢も盾もたまらず伯益の屋敷へと飛んでいきました…彼は既にいませんでした。
私はすぐに家に戻り、伯益が無実であることを訴える奏上文を即時に書き上げ、馬を飛ばして丞相府へと駆けていきました。
「…お願いします!魏王にお目通りをお願いいたします。私は陳長文の娘で陳瑠璃と申します!何卒魏王にお目通りのほどを・・・。」
そして私はその日の夕方にたどりつき…門番にひたすら魏王との謁見を求めました…。
「お…おい、お前。どうするよ・・・」
「どうするってお前…長文様の娘様だろう…追い出すわけにはいかないじゃないか…。」
「でもよう、魏王に会わせろって…どうすりゃいいんだよう。」
門番は決めかねてただ戸惑うだけでした…私はとうとう額づきました。
「お…お願いです…。魏王に…魏王にお目通りを…お目通りを…うぅ…。」
声は枯れ、涙は地を濡らし、額からは血が流れてきました…、それでも面会はかないませんでした…。
日が沈んだ時…背後から太い声が突然聞こえてきました。
「んー。お前ら、一体何をやっているのだ。」
門番の声の調子が凍りつきました…
「ぎ…魏王。これは…でございますね…。」
「見れば、一人の娘を相手に一体何をてこずっているのか…ほら、顔を上げるがよい、娘。」
 魏王…?曹操…? すこし混乱している私の近くに…寄ってきて、その男は屈みこんできました。しかし私は顔を上げることができずに…奏上文を差し出しました。
「魏王様…、魏王様でございますね。お会いできて嬉しゅうございます…私は陳長文の娘の陳瑠璃と申します…これを…これをお読みください!!そして伯益を…郭奕をお救いください!!お願いいたします…。」
魏王はその手紙を手で受け取ると…また太い声でこう言いました
「ほう、長文の娘で瑠璃というか…。うむ、これは後で読んでみようではないか。それよりも顔を上げるがよい、お前をこのままにしたら余が長文に叱られてしまうわい。…わっはっは!」
私は恐る恐る顔を上げると…そこには思ったより小柄な…どこか威厳とともに優しさがある男がいました。
「あ…ありがとうございます。」
というのが精一杯でした…魏王の体から出る一種の気のようなものがあり…圧倒されてしまったのです…。
「むっ、額から血が出ておる…破傷風にかかるといかん。さあ、早く余の屋敷に来て治療しなければな…おい、門番。」
ひぃ!と立ちすくむ門番…すこしおかしくて笑ってしまった…。


 郭奕の身柄拘束指令はその日のうちに解除され、傷の手当てを受けた私は翌日早々に、魏王に礼を何度も述べて…帰途につきました。
しかしそれでも…伯益は屋敷にいませんでした。しかし、私には一箇所なんとなく思い当たる場所があったのです…
それは…それは…。


 やや重い扉を開くと…そこは各種の香が焚かれ…光が差し込む窓は小さく…くらい場所でした…。彼の父…郭嘉の霊廟…
「…やっぱりお前には俺が毎月はじめにはここにいると知れていたんだな…。」
「あ…あ…」
言葉になりませんでした…
「…全く、頭に包帯なんか巻いて…。相手によるけど額づくにもほどがあるってもんだ。やっぱり気が狂っていたんだな。」
暗闇の中から…懐かしい影が…声が近寄ってくる…。私もそれに向かって歩みだしました…
「…でも、ありがとう。瑠璃、分かってはいたけどおかげで助かった。」
差し伸べられる手…私は…それに導かれ…胸の中に飛び込んだ…。
「も…もう、この…このっ大馬鹿…も…の…っ。」





 『我が親愛なる長文へ…もう私も長くないだろう。以前から体調を崩しては持ち直すことの繰り返しで体はボロボロであることは自分が一番承知している。しかし不思議と苦しみは少ない…丞相は間違いなく袁尚・袁煕を討ち取るだけでなく、公孫氏も降すことができよう。私が思うのだから間違いない。ただ、唯一の心残りは私の息子だ。私を快く思わない人も少なくはない…今しばらくは政情も平穏であるが、間違いなく曹操様は位を進めるだろう。その際に曹操様が大いに疑心暗鬼に陥り、多くの名士が粛清されることも目に見えている…その時に息子の身にも何か起こるかもしれない。その時に君という最高の友人に頼みたい、私の息子を守ってほしい…そして少しは礼儀というものを身につけさせて。社会をわたっていけるように育ててほしい。かなり身勝手なお願いかもしれないが…君ならばきっと私との約束を守ってくれると信じている。・・・ああ、次に生まれ変わるというのがあるのなら…身分や名声などに縛られずに、君と太陽の下で酒を酌みわしたいものだ…。 自称:君の最高の友人 郭嘉 奉孝』



「…約束は…守ることができたよ。ふふふ、君がいないから太陽に乾杯…だ。」
そして…彼は今は亡き親友からの最後の手紙を机の奥の奥に大切にしまった。



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