徐錫伝2


玄関へ


(1)
 ザッと大河の水を黄色く切り裂きながら一艘の船が走っていた。いかにも逞しく、大河の男と言わんばかりの漁師が操る船には、風に溶け込むほどの青さに身をつつんだ旅剣士のいでたちをした少女がゆられていた。

「申し訳ありません、わざわざ岸まで渡していただいて…。」
「いんや、気にすることはねえ。俺も仕事であっちかわの小屋にいかなきゃならなかったところだ。しかしあれだろ、ここらへんには船がなかったろ。」
エヘッと苦笑しながら僕は答える。
「ええ、実はここ二日間川沿いに歩いても…渡し場はおろか村すらなかったのですよ。」
それを受けて漁師も笑い出す。
「ははは、そりゃあそうだ。実はこの流れはつい最近できたばかりでな。姉ちゃんも知ってるだろ、黄河は何年かに一度流れを変えるって。」
「はい、それはきいたことがあります…、でも本当に変わるものなのですね。」
黄色く濁る大河、黄河…僕は始めて見るその大きさを…そしてその壮大な自然を見て感動に近いものを覚えた。
「ああ、変わるモンだよ。これが自然の営みとかいうヤツだ。俺が生まれるずーっと前から繰り返されてるんだよな。そして新しい流れを…恵みを求めていずれ人がたくさん移り住んで来るんだ。自然ってすごいよなぁ。」
「ええ…、感動ですね…。」
そうこう話しているうちに、船は向こう岸にたどり着いた…。
「ありがとう、おかげで助かりました。旅のみゆえにこのようなものしかありませんがどうかお受け取りください。」
僕は船から下りると、懐から都で昔買った装飾の施された短剣を両手でうやうやしく差し出した…すると漁師はそれを手で制して返してきた。
「いや、いらねえよ。そんなもんが欲しいくらいだったら…姉ちゃんをこっちに渡そうとはしなかったさ、それに必要なものになるだろ。それと…ホラ。」
そういうと漁師は胸元からクシャッとまるまった一枚の紙を出し
「あばよ、元気でいきなよ。」
そう言い残し河の流れの中にアッというまに消えていった。。
「何だろう・・・?・・・・・・あっ。」
僕はギョッとして目を見開き、その場に硬直した…というのもその紙は僕の手配書だったからだ。罪状は…『殺人』名前こそ書かれていなかったものの僕の人相書きが描かれていた。…似ているとは言えなかったが僕の特徴をしっかりととらえていた。
「あの人…事情を知っていたのかな?」
僕は震える膝のまま漁師の去った方向をずっと見つめていた・・・


(2)
 黄河の渡河に成功した僕は漁師の好意をかみ締めながら、まずは魏国から脱出しようと思いひたすら南へと急いだ。その際はあまり人目につかないように山野を選んで進んでいった。道中ではある一軒家に世話になることを繰り返すことで飢えや渇きをしのいでいった。その際はその時々で名を偽り、境遇を偽っていった。
 あるときは「親父を訪ねて柴桑まで旅している。」と言い、またあるときには「諸国放浪のあてもない旅をしている」と言っている僕がいた。人ばかりでなく自分まで騙しているような気がしてあまり気持ちのよいものではなかった。道中は飢えとの戦いだったが、親父から教わった薬草の知識で怪我も問題なかったし、ある程度の空腹もしのぐことができた。幸いにも実りの秋だったので山野には予想外に食料があったのです。そして僕はあるとき山深くにひとつの集落を発見しました、臥龍岡という集落で…やや世俗を離れた…仙人でも住んでいそうな神秘的な雰囲気が漂う農村でした。到着してすぐさまグゥと空腹感を感じた僕は酒場に向かうことにしました。

(3)
 酒場の雰囲気も非常にゆったりとしたもので、夕日が赤々と沈む夕刻だったこともあって割と多くの農夫が歌を歌いながら思い思いに呑み、収穫の喜びに浸っていた。僕がサッと席に着くとすぐに店員が寄ってきた。
「娘さん、何にしましょうかね?」
「お酒はいらないから…豆腐と餅を少しお願いします、おなかが空いたから…。あと、この村に宿はありますか?」
茶をつぎながら店員は首をかしげる。
「宿かぁ…旅の人かね。この村は見ての通りさびれた部落だからね・・・宿はないけど…あの岡の上に空き家があるから…そこを使ったらどうかね?なんとその空き家は昔に今の蜀の丞相が住んでいたんだ。…とっと、注文は豆腐と餅でよかったかな?」
外からの旅人が来ることが珍しいと見えて声調を荒げながら店主は語った。
「へぇ…そうなんですか…。」
蜀の丞相…諸葛亮。僕もその名前は聞き及んでいた、勿論時事問題として他国の丞相の名前くらい知っているし、何よりも親父がその昔知り合いだったという話も何度か聞いたことがある。・・・そうか、ここがあの蜀の昭烈帝が三顧を尽くしたという所だったのか・・。僕は頬づえをつきながら窓から夕日を眺めた。
「歩して斉の城門を出で 遥に望む 蕩陰の里 里中に三墳有り…」
僕は突然聞こえてきた歌声にはっとして我に返った。なおも歌声は続く、僕はそちらの歌のする方向を向いた。イスがカタッと鳴る・・・
「塁塁として正に相い似たり 問う是れ誰が家の墓ぞ 田疆古冶氏…」
  どこかで聞いたことのあるような歌だ
「力能く南山を排し 文能く地紀を絶つ 一朝讒言を被り 二桃三士を殺す 誰か能く此の謀を為せる…」
「…国相斉の晏子なり」
最後の一節は僕の声、そう。これは昔、親父がよく歌っていて、僕に教えてくれた歌…「梁父吟」にまちがいなかった。一斉に僕のほうを見る農夫たち、少し声が大きかったかな…と思うとすこし恥ずかしくなった。そのうちの一人が赤いかおのまま尋ねてくる。
「へぇ、娘さん。見ない顔だけど…あんたも知ってるのかね?この歌を。」
「え…ええ、僕の親父が教えてくれたのです。ちょっと思い出したので嬉しさのあまり大きな声で歌ってしまいました…すいませんでした。」
「いや、謝ることはねぇよ。ただな、この歌を知っている人がいるのは珍しいと思ってなぁ。…お前さんの親父はどこの出身だい?このあたりかい?」
とりあえず僕は逃亡の身であるので…正直には答えないようにしようと思った。
「僕の親父は揚州の出身で…一時ここにいたという話を聞いたことはあります。」
半分は本当である、劉表の客将の時代の昭烈帝に仕えたことがあると聞いていたし。経緯はよくわからないけど、荊州の名士の塾に通っていたとも聞いた。でも父は揚州出身なんかじゃない。そんな嘘なんか嘘と思わず、語り返してくる。
「へぇ、そうなのかい。この歌はな、さっきここの店主さんが言っていたようにな、蜀の丞相さまが作って歌いながら農作業をしていたという話だ。お前さんの親父もここにいるときに覚えたんだろうな。」
「そうなのですか。僕はただ習っただけなので…そこまでは知りませんでした。その諸葛亮という人物は才能にあふれていたんでしょうね。」
僕は諸葛亮という人間にたいして少し興味が沸いてくるのを覚えた、今日は諸葛亮の屋敷だったところに厄介になることを心の中で決めた…ちょうどその時に温まった豆腐と餅、あとは頼んでもいないのに酒が来た。僕がいぶかんで店員を見上げると笑顔がそこにあった。
「折角の外からの客だから地酒だ。呑んでいってくれ、どうせ今夜はこの村でこすのだろう?」
「はは、ありがとうございます。」
僕は喜んで好意に甘えることにした。そのうち白髪頭の農夫の一人が盃を見ながら口を開いた。
「…しかし、ワシの耳に入ってきたんだがな…また丞相様は北伐をなさったそうじゃな。」
それをうけて会話が続く。
「なに、そうなのか。久しぶりだなぁ…って言っている場合じゃないか。まだ戦乱の世の中は終わらないのか…。」
「そうじゃ、しかし…今回の一戦にかける気持ちは凄いらしくてな…。今は五丈原というところに陣をかまえているらしいな。軍屯をして…長期戦にも備えているそうだ。」
僕はそれに口をはさもうとした…豆腐をほおばったままだということを忘れて…。
「ふがっ…、はふぅ…むぐっ・・ぐくっ。ケホッ…ケホッ…。すいません、それって…今、丞相が五丈原にいるってことですか?」
やっぱり少しむせてしまった。
「おいおい、お嬢さん。大丈夫かね…。わしの情報ではな、今は五丈原で長期戦の構えだそうで、というか戦況は膠着してるらしいな。」
僕は間をおかず、すかさず聞き返した
「五丈原ってどのあたりですか?」
すこし伸びた白いあごひげを親指で転がしながら、答えた。
「あー、雍州の扶風郡…だったなぁ。ところで…聞いてまさか行く気じゃないだろうね、お嬢さん。」
いい終わると老人は杯を空にした。
「…行ってみたいです。」
僕は静かに、でも心の底から力強く答えた…酒場の中がざわっとどよめく。やがてそのなかの一人が…カタッと椅子を鳴らしながら立ち上がった。
「ウチの村の丞相様に会いに行こうとする勇敢な娘さんだ。みんな、旅立ちに乾杯しよう。」
おお、という声があがり…その日は夜がすっかりと更けるまで宴会が続いた。僕は気分よく酔い…ゆっくりと、ゆっくりと意識を闇の中に投じていった。

(4)
 月明かり白々した夜、岡の中にある風流な草庵が僕の目に飛び込んできた。その中からわずかに光がぽぅと漏れているんでいる。奥から人の声がこぼれてくる、僕はそれに吸い寄せられるように歩み寄った…。
「…ははははは…。」
だいぶ忍び寄ってようやく笑い声が確認できるようになった。声の主は4人はいるだろうか、若そうな男の声である…僕はもっと、できるだけ近づいた。会話の中身が聞いて取れるようになった。
「…なあ孔明、俺はどこまで出世できると思うか?」
「おお、そうだ孔明。私もついでに見てくれないか?」
「じゃあ某もついでに頼むぞ、孔明。」
…孔明?まさか諸葛亮?声出る先までうすい襖ひとつ隔てた所に到達した。しかし会話が気になって、顔を出すのは邪魔しかねないと思って憚られたのでふすまにピタッと聞き耳をたてるだけにした。ほんの一瞬の沈黙の後に、流れるような清らかな声が聞こえた。
「君たちは仕官すれば…州刺史か郡太守にはなれるよ。」
おお、と他の男たちがざわめいた、その中の一人がやがて口を開いた。
「では孔明、君はどうなのかね?」
そうだ、という声が続いて…すぐに声が聞かれた。
「ははは…どうかな…。」
「おいおい、孔明。自分だけじらすのかよ、それはないぜ。」
「ふふふ、それよりも公威。こちらに故郷の人間を呼んで住んではどうかね?」
孔明は…話題を変えた。ここにいるのはやっぱりあの諸葛亮なのだろうか?
「おいおい孔明、ムチャを言うなよ。故郷の人間を移住させるなんて…冗談もたいがいにしてくれよ。」
「そうか…君が才能を伸ばすのは中原ではないような気がするのだがな…。」
また別の男が話に入る…さっきから何度も聞こえて…自分がかつて何度も聞いたことのあるような声だ。
「孔明、確かにそうかもしれんな。でも公威は名門だぜ、一時的に難を避けて荊州に来てるとはいえ…曹操に仕えなきゃいけなくなる運命だろうよ。」
曹操、武帝以外にその名を僕は聞いたことが無い。どうしたことだろう、死んだ人間に仕えるなんて?既に崩御して十年以上たっているのに…僕はますます訝しく思った。
「元直、そういう君も母君と兄君を故郷に置いたままだったね。君も曹操に仕える気かい?」
元直…?それは間違いなく僕の父の字、まさか…それにこの聞いたことのある声は…声の主は…?僕はジッとしていられず、襖を開けて少し中を覗き込もうとした…その瞬間…カッと眩しい光が僕の世界を真っ白にした…

(5)
 次に視界が開けたときは、さわやかな空気が朝日を乗せて板張りの部屋を照らしていた。僕は仰向けの状態から光にやさしく導かれるように上体を起こした。
「夢・・・?」
昨日はのんで意識を失ってから、どうやらここに連れて来られたのでしょう。気分はとてもスカッとしてよい、結構上等ないい酒だったのかもしれない。そして僕はいきなり現実に引き戻された反動で脱力しながら、しばらく不思議な夢について思い出しながら頭で整理した。

 まずは孔明と呼ばれる人がいたこと、これは諸葛亮でしょうか?そして公威というのはもしかしたら孟公威のことでしょうか?曹操とは武帝のこと?それにしても仕えるって…今ではどう考えても不可能な話しだし…敢えて名を侵すような行為はしないはず。最後に…気になったのは元直です…これが僕の親父なら…孔明と交友を昔結んでいた…ということにも合致する…もうひとりが誰かはわからないけど…先日酔った頭で聞いた昔にここで集った賢者たちの話を統合すると…崔州平なのだろう…。このように夢の整理を集中してしていると、いきなり背後でスッと襖が開いた。
「おや、もう起きていらしたのですね。」
振り向くとひとりの腰の曲がった老婆が目を細めてこちらをみていた。
「あ・・・あなたは?」
僕がそう尋ねると、老婆は近寄ってきながら語りかけてきた。
「私はここの集落の見ての通りお婆さんですよ。私は丞相様の家をこうやって定期的に掃除しに来ているのですよ…いつか…。」
老婆は横に座り込み、目は遠くを見ている…
「いつか、丞相様が仕事を終えてここに戻ってくるその日まで…ね。」
そう言う老婆の背中は小さく僕の目に見えた、こうやって何年待ってるのだろう。僕なら、こういうようなことができるだろうか。誰か、いつくるかわからない人を待ち続けることが…。
「それに・・あなたのような旅人が…たまにこうやって泊まりに来るのですよ。そのためにも私はこうやって掃除をしているのですよ。」
残されたものの悲しみを負うくらいなら、僕ならば追いかけるだろうな…。でも、このおばあさんはしない。僕も年をとったらこうなるのだろうか。
「…おなか空いていませんか、よかったら私の家に来なさいな。汗も流したいでしょう、女ならもう少し身だしなみにも気をつけなきゃあね。どうです?」
考えていたところをいきなり振り向いて、優しいおばあさんの笑顔が目に飛び込んできた。
「しかし・・・・いいのですか?お世話になってしまって…。」
「なに、どうせ帰ってもお婆さんしかいない所さ、時間の許す限りゆっくりとしていきなさい…。」
僕は草庵を後にした。隣家まで坂を下り続けるのはかなりの距離があり、まさしく霞がかる神仙の地でした。

(6)
 その日の昼前、僕はお世話になった老婆や酒場の店主にひとことお礼を言ってから、臥龍岡を出た。ますます秋風が深く、朝晩冷え込むなど厳しくなっていく季節となっていた。再び僕は山野をかきわけかきわけすすむことにした。行き先は五丈原…あえるかどうかはわからないが、親父の友人であったという諸葛亮という人間に会ってみたくなった、それだけが動機でした。
 五丈原までは特に何事も無く順調すぎるほどに進んだ。蜀の領土に入っても特に怪しまれるようなことはなく、蜀の北伐軍が進んだ道を早足でただ、たどっていった。戦況はいまだ膠着しているらしく、普通に追いつける計算だった。そして8月10日、とうとう僕は蜀の本陣を眼下に見下ろせるところまでやってきた、風はゆっくりと吹き荒れていた…。その陣構えはまるで地形に逆らうことなく無理なく沿っていて、その地形の特徴に加えて陣形の精緻さによって攻めるに難く守るに易い造りになっていた。
「…すごい…。」
僕は思わず感嘆の声をあげてしまった。そして他方を見やると、別の陣と魏の旗印が遠くに見えた。こう着状態とはいえここは血なまぐさい戦場なのである、斥候兵が絶え間なく動いているのが目に見える。再び蜀の陣営を見ると、中央やや奥にひときわ大きい帷があった。「帥」の文字が見られることから…あそこに丞相が…諸葛亮 孔明がいることなのでしょう。
「さて・・・いったいどうやったら会えるのかな…?」
無謀だとということは明らかだ、自分でもまずあえないだろうということは道中で何度か考えていた。しかし目の前にすると会いたい気持ちが募っていくのである。その昔、親父の友人で今では一国の丞相にまで成り上がった人物をせめて一目見ておきたかったのです。僕はピンとひらめいて親父から貰った小包をふと空けてみた。中身を見て、僕はある決心をした。
「…これだ。いちかバチかやってみるしかない…。」

 夜を待って僕は蜀の陣に侵入した、見張りの目を盗んで柵を越えることくらいはは楽勝だった。そして誰の目にもつかないようにできるだけ最短距離で「帥」の文字を目指してできるだけ自然に歩いていった。しかし途中、蜀の兵士と何度かすれ違ったが不思議なことにあまり警戒されず、素通りされた。少々華やかな小姓の衣装を纏っていたからかもしれない。
「…お使いと思われているのかな?このままだとうまくいくかも…。」
そして目標とするところにたどりついた、実際に国家最高クラスの帳ともなると屋敷くらいに大きい。よくも作られたものだと感心して新入していることを忘れてふと見上げてしまった。ハッと我に返って正面を見据えるとそこには門番が二人、左右に構えていた。そのうちのひとりが口を開けた。
「おい、お前。そこで何をやっているのか?」
僕は前もって考えていたセリフを居直って丁寧によどみなく発した。
「はい、実はある小間使いがつとめに出かける際に忘れ物をしたということですので、僕が代わりに取りに来たのでございます。」
「ふむ、しかし知らん顔だな…新入りか?」
「はい、以後お見知りおきのほどを」
「よし、わかった。通るがよい。」
中へといざなう門番、僕はまんまと入ることに成功した。しかし勝手がわからないうえに夜間であるのでどちらが奥かがよくわからない、すこし往生して立ち止まってしまった。すると僕の背後からいきなり氷が突き刺さるような声が耳に入った。
「おい、そこで一体何をしているんだ。」
僕が目をやるとそこには10歳くらいの少女が堂々と立っていた、そして続ける…。
「ここより先は丞相のお部屋、今は丞相の容態は思わしくないのでここから先はみだりに近づいてはならぬことは貴殿も存じているはずだ。さあ、去るがよい。」
わずか10歳の少女の言葉なのに僕は激しい威圧感を感じた…。
「はっ、…申し訳ありませんでした…。すこし丞相の容態が気がかりになったもので…。」
「容態は思わしくない、ただそれだけだ。わかったら早く去るがよい。」
よく暗いのでよく見られないが、小さな体からは何かオーラのようなものがでていて近寄るべからざる雰囲気が出ていた。僕はそれに圧されるかのように答える。
「はっ…では失礼します…。」
僕が仕方なく背を向けて去ろうと思ったそのとき…
「これ、そこの者、待たれよ。」
「えっ…?」
僕は闇を振り返った、夢の中で聴いた声が耳に流れてきた。
「阿玲も…私を思うものをこのように無下に扱ってはならぬ。それに容態は最近気持ち軽くなっているのだ。」
「丞相、しかしまだ顔色が少し悪うございます。早くお休みになられてください。」
「阿玲、私にはな、まだまだやらなければならないことがある。いつまでも寝ていたら体にも心にも悪いのだよ…。さて、そこの者、こちらに来るがよい。」
丞相と呼ばれたその男はまことに偉丈夫と言うべき人物でした。ただ灯りに照らされた顔は窶れ、彫りが深くなっている様子が見られました…僕はそのようなことを思いながら応対した。
「は…はいっ。」
僕は丞相…諸葛亮そのひとに導かれ、光がわずかに漏れる奥へと行った。

(7)
 燭台の炎だけが明かりの部屋…装飾もこれといってなく質素なことこの上ない部屋でした。これが本当に前線に出る一国の丞相の執務室なのだろうかと、周りを思わず見渡す。阿玲という少女と目が合って少し気まずく感じた。そしてゆったりと席に着く諸葛亮。纏っていた上着を脱いではぁと息のカタマリを吐く。
「さて、阿玲よ。申し訳ないが少し席を外してくれないかな。」
無言で阿玲は部屋から去った。
いったい何が始まるというのだろうか…諸葛亮が口を開く。
「はじめましてお客人、私は漢の丞相をつとめております…姓を諸葛、名を亮…字を孔明といいます。遠くからわざわざの親友の子のご来訪、嬉しく思います。」
いきなり丁寧に自己紹介をはじめたのである…そして…バレてる。すこし肩の力が抜けた。
「…丞相はお見通しでいらしゃいましたか。はい、僕は身分を偽って入ってまいりました…どうか無礼お許しください。」
それを聞くと諸葛亮は顔を崩し、笑って言った…。
「何、気にすることはない。少し星で占っていたから君が来ることはわかっていた。ははは…、ただ阿玲には伝えなかったがね。あの子はそういうことを信じない子だからね。」
「し…しかし、何故僕が徐元直の子だと分かったのでしょうか…。」
「自分の腰を見てみよ。」
僕は自分の腰に目をやって…背筋が凍りついた。剣が差しっぱなしだったのである…
「あ…あ・・・・。」
僕はなにかとんでもないこと無礼を働いていたような気がして・・・いや、よく刺客と勘違いされなかったと思いながらも身の毛がよだつ思いがした。それをやさしくなだめる。
「ははは…私が前もって少し触れを出しておいたのだ…怪しまれないのは当然でしょう。ところで…元直は今なにをしているのです、官爵は?」
・・・・僕は自分が生まれてから知る限り、親父のことを話した。

・・・・・・・・・
「…そうか。きっと君を教育していたこの2年間が…君の父のとって充実していた時でしょうね。」
ふ…と諸葛亮はため息をついた…
「それじゃあ君は舞踏も父から学んでいたんだね。」
思い出したように切り出す諸葛亮。
「はい、各種学んできました。よろしければお目にかけましょうか。」
すると諸葛亮は笑みを浮かべた。
「おお、そうですか。是非とも見せてもらいたいです…どれ、私も少し久しぶりに琴を奏でるといたしますか…。私の琴に合わせて踊ってくれませんか。」
「喜んで。」
…諸葛亮は大きく息を吸い込むと…かつて親父が奏でた曲と同じ曲を演奏し始めた…。ただ、親父のそれに比べると…生命力に乏しく、かなり荒涼とした感じがした、音に乗って僕は踊りだす。この服は軽くて体と密着する所としないところで均衡がとれていてとても踊りやすい、雲や霞でもまとっているようだった。僕は目をつむって…親父から学んだ舞をまった…琴の音に身を任せて…琴の演奏者と一体となることだけを考えた。

すると伝わってくる…演奏者の哀しみが…羨望が…そして未練にも近い感情が…。

 ・・・・・・曲が終わったとき、僕はふっと空気が抜けたような疲労に襲襲われた。激しく汗をかいていた。あまりにも多くの思いを体に受けたからだろうか?その中にあった羨望の感情は…人臣として最高位を極めた丞相・諸葛亮も羨望を感じることがあるのだろうか?そして未練…何なのだろう?この感情は…とても不吉な感じがする…何かはわからない…だけど…。

諸葛亮は閉じたままだった目を開くと空気を吐くようにゆったりと話し始めた。
「ふぅ…久しぶりに…楽しいひと時を過ごさせてもらったよ…まるで元直を見ているようだった。昔をついつい思い出してしまった…。そういえば…まだ君の名前を聞いていなかったね…なんというんだい?」
僕の思考は止められた…
「は…はい、申しおくれましたが…花梨ともうします。」
「そうか…君はまだ名を持っていないのだな…全く元直もいつまでも子ども扱いをさせているな…まるで…元直の母君のようですね。」
婆様のことなのだろうか?ばあ様も親父になかなか字を与えなかったのだろうか?
「よし、これから君はこの世の中を広く見聞することになるだろう。元直も一人前と認めて君を世に送り出したに違いない。これからは徐姓を名乗っていくのがいいでしょう。名は錫…字は泰喧…いかがかな?」
「徐錫…泰喧」
「いかがなものだろうか、それとも…私が元直に怒られてしまうかな…。」
力なく顔に笑みを浮かべながら笑う諸葛亮
「いえ、ありがたくこの名を頂戴いたします。」
蜀の丞相から一人前と認められて…僕は嬉しかった。
「おお、そうですかそうですかか。くれぐれも元直によろしくお願いします…。ふぅ、まだ君はこれからも旅を続ける気でしょうかね?」
「はい、まだまだ僕は見たいことや聞きたいことが多いのですから…。」
「…私も若いときはいろいろ遊学や諸国放浪などをしたものです…。若いうちに多くのことを経験することはよいことです。…それが修羅の道であろうとも…。」
修羅 僕の心にこのひとことがやけに重たくのしかかった。修羅?修羅って・・・?
「ふぅ…今日はもう疲れてしまいましたよ。久しぶりに若いときのことを思い出しました…阿玲に寝所は用意させてある。今日はここで休んでいきなさい。…阿玲、いませんか。」
阿玲が退室と同じく静かにやってきた
「このお客人を客人室に案内してあげなさい。」
阿玲は畏まって頭を垂れながら答えた。
「はい、では行きましょう。」
阿玲が僕を導く…僕は頭を下げて退室した…客室へ向かう途中、阿玲が話しかけてきた。
「丞相があんなに楽しそうにしていたのは久しぶりだ…礼を言おう。」
僕は少し拍子抜けてしまった、いきなり礼を言われるとは思わなかったからだ。その口調からは先ほどの鋭さは感じられなかった。
「え…ええ、どういたしまして…。」
一瞬の沈黙があった。会話が続かないのが、廊下の闇と得体の知れない少女の背とあいまって永遠の沈黙にも感じられた。
「丞相を元気付けてくれてありがとう…。」
沈黙を溶かしたのは少女のひとことだった。…今までの冷酷な口調から…少女のような口調になっていた。客間につくと阿玲と別れ、僕は深い眠りについた…。その夜は蜀の陣に厄介になった、記念すべき夜だった。 

(8)
翌朝早く僕は諸葛亮から餞別をいくらか渡されて陣を後にした。父への手紙も手渡されて…。

徐錫 泰喧の門出である。ひんやりする程度の寒さが肺を洗う。
僕は蜀の地を見聞するため、南下した。
そして8月24日、成都へ向かって歩いていたとき、北の空で星が堕ちたのをはっきりと僕は見た。
あとで分かったことだが、この日に諸葛亮が亡くなったらしい…

あの日、全身で受けた人間・諸葛亮の思いが体の中で一気に爆発したようで…胸が熱くなった。

しかし、どうすることもできず、ひとりでその思いを沈めるのにいっぱいになった。



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