僕は比較的温暖な蜀の土地で冬を過ごした、この間に蜀の識者や武芸者など、できるだけ多くと交わり自己の修養につとめた。 やはり魏とは考え方が根本的に違っており、その思想に僕が学んだほどの革命性は無い。 しかしそれでもガチガチ保守の漢王朝主体であった儒教は廃れつつあると感じた、これもやはり時代の流れなのだろうか。 諸葛亮の葬儀に僕も見物人に混ざって参加した、規模こそ大きかったもののあまり豪華ではなかった。まるで諸葛亮という人間そのものを象徴しているように思えた。遺体は遺言に従って埋葬されるそうだ… 春の訪れを待って…すなわち僕が17の年になるのを待って、蜀を出た。魏に戻るのは手配されている件があってやや不安だったので、僕は呉へ向かって歩み出した。 乗り合いの船で長江の川くだりをして呉を目指した。昼は霧がかかった険阻で無骨な形の山を青空を背景にして見て、夜は川面に映る月を眺める。美しいものでした、琵琶があれば奏でながら歌ったことでしょうに。またあまり大きくない船だから踊るわけにもいかない。この風景は後世まで永く人々の心をうっていくことだろうな…いや、そうであってほしい。 船から下りて陸路をとる、ひたすら東に向かって歩いた。 そろそろ荊州に入るかどうかの所の山越えの途中で一人の老人に会った、山賊が出て心細いから一緒に行ってくれると心強いということだったので山越えを共にすることにした。僕が剣の修行をかねた諸国放浪をしていると聞くと安心できるといって喜んでくれた。 道中は老人と話をしながら山道を進んだ。 「そうかね…剣の修行をかねた諸国行脚の旅を…若いのに大変じゃねぇ。」 とても物腰がやわらかく、好感のもてる老人だった。 「いえ、僕自身の目標に近づくためならばその労は惜しみません。どんな山でも越える意気でいます。」 老人は笑いながら言った 「ほっほ、それはまた頼もしい限りじゃ。山を越えてわしの家についたら…お礼に宿を貸そう。あばら家でよければ休んでいってくれ。」 「ありがとうございます。ところで…この山はあとどれくらい続くのでしょうか?」 老人はまた笑いながら言った 「なぁに、もうすぐじゃよ、もうすぐ…。」 まだまだ道は登り道が続き、見渡す限りの森林なのにもうすぐとは変だなとは思いながらも、僕は進んでいった。 そして少し進んだところの茂みから一人、男が大刀を持って飛び出してきました…僕は山賊と咄嗟に判断しました。そしてその男は刀をかまえ、大声で言い放ちました。 「俺は黒山の族の生き残りの朱英だ、命が惜しかったら…おとなしく身包み置いていきな!」 僕は一歩踏み込む、距離をつめて剣に手をかけた…その時、後ろで気配がした。 後ろにもいたか…!僕は後ろから突進してくるものをいなして…左手の剣でそれに斬りつけた…確かな感触があった。 それはどす黒い血を噴き出しながらどさりと倒れ伏せた…僕はそれを見て一瞬凍りつく思いがした、がすぐにそれは激しい怒りに変わった。 そこに血を流して倒れていたのはさっきの老人だった…が、手にはしっかりと鉈が握られていた。 …もうすぐというのはそういう意味だったのか…そしてつるんでいたんだなっ。 僕が鋭い目を老人から山賊へと向けたら、山賊はひいと叫んで逃げ出した。 「逃がすかっ!」 僕は老人の手から鉈を奪うとそれを山賊に向けて投げつけた。 鉈は山賊の左肩に当たり…そのはずみで山賊は奈落に消えた。 「ふん…姑息な手を使うもんだ、すっかり気を許していたじゃないか…。」 ちらりと僕は老人のほうへ一瞥をくれてやった、そのまま去るつもりだったが野晒しも不憫に思われたし、情も少しはあったので簡単に墓を作ることにした。雨や地震で地表に出てこない程度に穴を掘り、石を置いて簡単に墓とわかるものを作った。 そしてそれに手を合わせて僕は再び一人で歩みだした。 山はかなり深く、一日中歩いてすっかり夜が更けてしまっても人里すら見えてこない。 夜の春の山は冷え込みが激しく体力を激しく奪われてちょっとした絶望を感じていた時、目の前に一軒の人家を見つけました。 まさに助けに船と思い、僕はその家に一夜の宿を貸してもらおうと近寄り、戸をたたいた。 すると、中から年のころ30ほどの夫人が出てきた。 「あら、こんな時間にどうかなさいましたかね、お嬢さん。」 「はい、山を越えている最中、山賊にであったばかりでなく…このように暗くなってしまいました。朝露と寒さをしのぐためにも一夜の情けをお願いします。」 すると夫人は憐れんだ顔になり 「まあ、それは難儀していることでしょう。ささ、入って入って。」 僕を中に通してくれた。 「今、主人とおじいさんが下の町までちょっと出稼ぎに行っていて…山に慣れたあの二人でも下の町に行くのに半日もかかってね。ふふふ、どうして私たちがここに住んでいるか不思議そうだね。」 そういわれれば不思議である、ここまで全く人家らしい人家は見えなかった。 「はい、そうですね。何かやはり土地への愛着でしょうか?」 「ふふふ、見た感じ旅がらすのあなたが土地の愛着っていうのも何か変ね、でも山賊が出て危ないし…町まで遠いし…不便なこともあるけど離れられないのよ。さあ、今日は粗末ですけどここへとまっていってくださいな。今からちょっと何か食べるものを持ってきますね。」 「あ、いえいえ。お構いなく・・・むしろ僕はもう眠たいので…明日も朝早くここを発ちたいと思っておりますし…。」 「そう、それは残念だけど…それもそうね。明日の朝に少し持たせてあげましょう。今日はゆっくりとおやすみなさいな。」 「ありがとうございます。それではおやすみなさい。」 「はい、おやすみなさい。」 僕はこの夫人の厚意に感謝しながらねむりについた…土地への愛着…か。 「いやぁぁ!!」 僕はその叫び声で目を覚ました、夫人の声である。僕は剣を差して声のする方角…玄関へと向かった。 「奥さん、どうなさいましたかっ!」 僕がかけよるとそこには全身傷だらけで左肩には大きな傷がある男が立っていた。見覚えがある…そう、山賊の朱英である。 声を発しようとする前に夫人が大声を張り上げた 「おまえさん、いったいどうしたんだい。その傷は…!それに親父さんはどこへいったんだい。」 …おまえさん…ということは私を襲ったあの二人はこの夫人の義父と夫ということだったのか。 やがて私の存在に気がついた朱英はひやぁという声を挙げた後に夫人を突き放して腰を抜かした。 「お…おまえさん、どうしたと言うんだい。」 すると朱英は僕を指差し…情けない声でこういった 「ゃ…ゃ…奴だ…、あいつが…あいつが…あいつがやったんだ。」 「えっ…」 夫人も驚いて僕を見る…。 僕は開き直って、胸を張って極力声を低くして言い放った。 「そうとも、僕がやったさ。しかし…お前は何だ、うしろからお前の親父がいきなり襲ってきたんだぞ。その親父は僕しに道案内を頼んですっかりと信用させるという手の込みようじゃないか。あやうく掠奪されるところだった…そしてお前は親父が僕に切りつけられ、倒れたとき、見捨てて去った。全く情けない…。」 朱英は全く恐れ入っていた、夫人は茫然自失、もはや何がなんだかわからない顔をしていた…僕は続けた。 「今ここで、お前を斬って恨みを晴らすことはできるが…夫人からの一晩の情けもある。ほら、もっていけ。」 僕は路銀を少し袋に詰めて投げた。 「これで傷の手当てをするがよい、そしてもう少しおまえの親父の墓を立派にしてやるのがいい…。すべて夫人のおかげと思え。これに懲りて…二度と山賊稼業なんぞに手を染めるのではない…、愛着ある土地を守っていけっ。」 そういい残して僕は振り向きもせず、夫人と朱英の横を通り過ぎ、未明の山路を歩みだした…。 その日は空腹を糒でしのぎながら進んだ、けれども一向に人家や集落は見えてこなかった。 そのまま僕は夜も進み続けたが、暗くて危険であるので木陰で夜を明かすことにした、獣よけに焚き火をおこして…夜明けを待った。 すると不幸にも突然の雨が降って来た、焚き火は消え、雫が容赦なく木陰の中に落ちてきました。 「…ついてないなぁ…。」 僕はもう少しだけ大きな木の陰に入り、手持ちの雨具を使用したが…体はすっかり冷えきっていた、 雷まで鳴り出してますます雨は強くなっていったのです。 こうして僕は一睡もせずに震えて朝を迎えました…雨だった空はすっかり晴れていました。 その日の昼ころから体調に異常を感じました、体が熱く、気分がすぐれなかったのです。要するに…風邪をひいてしまいました。 体調はますます悪化し、一歩すすむごとに頭がくらくらして足元がおぼつかなくなったり、吐き気がしたりしました。 先日とはうってかわっての晴天にもうだめかと思ったその時、前方に無人の祠を見つけました。 僕は助けに船と思い、その祠で体調がよくなるまで薬草を採取しながら休みを取ることにしました。 その日は囲炉裏に火を起こしたら…そのまま眠りについてしまいました。 目覚めたら僕は全く違うところにいました。 荒れた無人の祠から立派とはいえないけれど、風格あるつくりの部屋にいましたし、着物も変わっていて布団もかぶっていました。 僕は風邪でうまく回転しない頭でいろいろと思い出そうとしてみましたが、何度思い出してみても僕が最後におぼえているのは祠で火を起こしたところまでなのです。 祠にこんな部屋があるでなし…布団があるでなし…、何よりもこの着物に見覚えは無い。 僕が考えていると扉が開いた、そこからは初老の女中らしき人物がいた。女中は僕が目覚めておきていることを見ると少し驚いたような顔になり、僕を再び寝かしつけようとした。 「まあ、目を覚まされましたか。熱は…まだまだあるようですね。さあさ、もう少しお眠りくださいな。今、何か作ってきますね。」 僕はそれを制した 「あの、すいません。ここはどこなのですか…そしてあなたは…?」 女中はああ、と声をあげて、まだ何も言ってなかったねと言った。 「ここは宜都郡の北部のほうで…この屋敷はこのあたり一帯をまとめあげる若領主の蔡謙様のお屋敷で…わたしはその使用人でございますよ。」 「宜都郡・・・の蔡謙…?」 もちろん聞いたことのない名前である。でも僕の頭はいまだに混乱していた。それを察して女中は続ける。 「話によると…蔡謙さまが2日前にご先祖の霊廟を回った時のこと、あなたがぬれた服ですごい熱でうなりながら倒れていたということなのです。それを蔡謙さまがここまで運んでこられて…わたしに世話を任されたのです、服もわたしが取り替えさせていただきました。血痕やほころびが目立つ服でしたので…少しきれいにしておきましたよ」 この女中の話を信じるほかはなかった、話の辻褄も合っている…服も…換えてくれたのか。 「ところであなた…お名前は…?」 僕ははっとした、まだ自己紹介が済んでいなかったからだ。 「はい、僕は花梨…じゃなくって、姓を徐、名を錫…字を泰喧と申します。諸国行脚の旅をしている…うっ…。」 突強い吐き気を催した、しかし胃に内容物が無かったことや堪えたことで…嫌な胃液が上がってきただけで済んだ…。 「まあ、大丈夫でございますか。もう少しお休みくださいな…軽くお粥を作ってきますね。胃のなかが空っぽなのはかえってよくないからね…」 女中が僕を寝かして立とうとしたとき、扉が再び開いた… 「若旦那様、病人のお部屋…しかも女子のお部屋なのですよ…入る前に戸をたたくなどしてくださいな。」 「おお、すまんな。ちょっと心配になって来てみたんだが…おっ、目を覚ましているじゃないか。」 若旦那と呼ばれたその男はよく通る声で言った…姿は女中の影で見えなかった。 「どれどれ…どんな寝顔かな…って。起きてるか。」 若旦那…蔡謙が歩み寄ってきた、気配がする。 「ああ、ご病人ですから…若旦那様、お気をつけて。」 「若旦那って呼ぶのはやめてくれよ、まだ親父の跡をついで日が浅いんだし…つい2年前までは坊ちゃま呼ばわりだったじゃないか。」 僕の横にかがみこんできたとき、ようやくその姿を見ることができた。 年の頃は19〜20といった所、かがみこんではいるが身の丈は7尺半ほどで顔は幼さのやや残る顔に口髭を生やしている…まあ端整な顔立ちだった。その顔が僕の顔を覗き込んだ。 「おー…。」 と、少し何か感心したような顔で僕を見ると続けた。 「やあ、おはよう。お嬢さん、気分はいかがかな。」 僕はやや呆気に採られながらも答えた。 「は…はい、お蔭様です…助けていただいきありがとうございます。…気分はまだ完全にはよくありませんが…だいぶよくなりました。」 女中が次に来る質問を察してかこう言った。 「姓を徐、名を錫…字を泰喧とおっしゃるそうですよ。諸国行脚の旅をしているとか…。」 「へぇ、諸国行脚ねえ…それは大変だ。徐錫とか言ったね、これからよろしく。」 蔡謙は一段と声の調子を上げて、僕に手を伸ばしてきた、握手を求めているんだ…僕も手を伸ばす。蔡謙は僕の手を取った、やけにごつごつとした手だ…農作業でもしているのだろうか。 「…いい手だね、よっぽどいい手入れの方法を知っているんだ。きれいな肌だ、うん…それに可愛いね。剣を持つよりよっぽど似合うことがあるのになぁ…。」 そういって、彼は一段と強く手を握り…放した。 「よし、いつまでもここにいたいけど…俺もすることがたくさんある。…徐錫、いつまでもここにいてもかまわない。旅をしているそうだけど…腰をおちつけるのもいいんじゃないかな。それじゃ。」 笑顔を残して彼は去っていった… 僕が…剣を持つより似合うこと…?それは何だろう…、それにどうしてそんなことを言うのだろうか…。女が剣を持つのは変なんだろうか。 「ふぅ…。」 女中のため息で僕の思考は停止された。 「若旦那さまはああいうお方だから気になさらないでくださいまし、2年前に山塞に居座る山賊を…近くの領主と共に討伐に行ったときに前の大旦那さま…若旦那さまの父君が戦死してから…継がれたのです。人の世話をすることがお好きな方で…若旦那さまを慕って食客も多く集まってくるのですよ。」 山賊…僕が遭ったのとは別なのかな…、多分そうだろう、土地の領主二人の連合軍と戦って、一方の領主を討ち取っているほどだ。かなりの規模なのだろう。それでも気になって僕は訊いた。 「山賊というのは…?」 女中は表情を険しくして言った。 「呉延と趙秀の二人を頭目にするかなりの規模の山賊ですよ。これとの戦いで大旦那様が…ここだけの話だけどね…。」 いっそう表情を険しくして声をひそめて言った。 「大旦那さまは…山賊に殺されたんじゃないとわたしは思っております…。」 「え…でも前の戦いで戦死されたと…おっしゃったではありませんか。」 「それは表向きの話ですよ、裏ではもっぱら…楊韓の仕業じゃないかということだよ…。」 「楊韓…?誰でしょうか…。」 「ああ、まだ申していませんでしたね。楊韓…宜都の北部を分けるもう一人の領主ですよ。…昔から蔡氏と楊氏は宜都の北部の覇権を争っていましてね…呉延と趙秀が現れてからは表面上の協力を始めたんですよ。」 「共通の敵が出てきたから…協力をしたということですね。」 「そうなんですよ、そこで…何度か共同戦線を張ったのです。戦果は全く一進一退、山賊もやるもので山塞にこもると…こちらでは手出しができません。幾度にも及ぶ戦いで…共同とは名ばかり、戦うのはいつも大旦那さまの軍ばかりで…楊氏は動こうとすらしないのです。戦場にいるだけで…ふう、あの日も…大旦那さまの軍が窮地に陥っていうるのに助けに行かなかった…楊氏。楊氏が…楊韓が見殺しにしたに違いありませんっ…。」 女中は声を荒げた…それと同時に僕の腹の虫が鳴いた…。ぐぅうう…という長く情けない音が部屋に響く。われながら緊張感のなさに顔を赤らめてしまった…。 「あ…あら、そういえばごはんまだでしたわね。すいませんね、空腹なのに長話につき合わせてしまって…これから作ってきますね。」 そういい残して、女中はそそくさと去っていった。 「…領主どうしの争いかぁ…。それに盗賊団…三つ巴…だなぁ。」 女中の隠しきれない怒りから楊氏の卑劣さが伺える、共同戦線といっておきながら結局蔡氏に任せているのは…卑怯だ。 これでは蔡氏の力が衰えるだけではないか、ひょっとしたら…楊氏は宜都の北部をすべて手中に収める…いや、そこまで考えていなくても蔡氏を滅ぼすつもりなのかもしれない。憶測にすぎないと思いながらも怒りがわいてきた…しかし空腹がその怒りを継続させなかった。空腹で全身の力が抜けてしまった…。 数分後に熱い粥ができてきた…熱くてなかなか食べられなかったけれど…空腹によく効いた…ただ美味しかった。 数日ののち、女中らの看護や若旦那さまのお見舞いによって体調はすっかりとよくなり、布団を出て散歩ができるまでになった。食欲もますます出てきて健康そのものとなった。 そんなある日のこと、せめてお世話になった女中にお礼として舞を披露しようと思い、夕食を運んできてくれた女中を呼び止めて…舞を披露した。 病み上がりで軽い運動不足もあったけど自分が思い描いた舞ができた…女中を仕事の途中にとめておくのは悪いと思ったので親父から習った最も短い舞を披露した。 舞が終わると女中は心がまるでここに無しといった感じでした。 「ふぅ…貴重なお時間を割いていただいてありがとうございました…。拙いですがこれが僕の舞でございます…。」 すると女中は唖然とした表情を変えることなく目をみはったまま言った 「…その踊りの腕は…なかなかのものですね…。今夜の若旦那さまの食事の席にでも…よろしければ踊ってみてはいかがでしょうか。いえ、無理強いはいたしませんよ、まだまだ病み上がりで体調の優れないことろがあれば…。」 「いえ、喜んで舞います!若旦那さまの恩返しになるのならば…。体調はすっかりとよくなっています。」 僕はすぐさまに答えた。熱を出して倒れていたところを救ってくれた恩人であるから…その恩返しをしたいと思っていたからです。すると女中は満面の笑みを浮かべて言った。 「そうですか、若旦那さまもきっと喜ばれます。ここのところ若旦那さまも忙しくて…一時の慰みをさせてあげてくださいませ…それでは早速若旦那さまに掛け合ってみます。詳しくはまた後ほど…。」 と言うや否や女中は部屋から走り去った。よっぽど彼女にとっては嬉しいことなのだろう、そうに違いない。少し前まではお坊ちゃんと呼んでいた人物なのだ。そういう意味で大切な人なのだろう。 …僕にはいるのだろうか、大切な人が…。 その後、またそれとは別の女中が来て踊ってもいいとの旨と大体の時間と場所を伝えてくれた。 僕はすっかりと緊張してしまった、僕なんかの拙い舞でいいのだろうか…こういうところではちゃんとした芸妓を雇うべきものであって…旅の剣士が道楽で身に着けたような舞でよいのだろうかと不安にもなった。 時間は無かったけど何度となく僕は予行練習をした。できるだけ…感謝の心を込めて…僕は舞おうとした。軽く踊ったはずなのに…激しく汗をかいていた。…何故だろう、踊った後はたいていすがすがしい気分なのに… 「踊りに…無理があるのかな…。」 激しい徒労感の上に…何か心が晴れなかった。こんなことは初めてでした。 時間が流れ、とうとう呼ばれる時間となりました。 「徐錫さま、よろしいでしょうか。」 扉の奥から件の女中の声が聞こえてきた。 「え、ええ。今から行きます。」 僕は少し慌てて出て行こうとしたからその拍子に躓いて転びかけた… 僕は別の部屋に通された、するとそこには彼が土に汚れた農作業風の格好で座っていた。 そしてあのよく通る声でこう言った。 「おっ、今日はすばらしい芸妓が出てくると言ったが…徐錫だったか。・・ふぅ、農作業の後は疲れてるなぁ…ささ、踊って見せてくれよ。」 僕は促されるままに踊り始めた… 「それでは失礼いたします。恩返しと思って…真心を込めて踊らさせていただきます…。」 僕は言葉どおり真心を込めて踊った、踊りの形は考えずに・・・体に染み付いた踊りの技術を総動員し、ただ捉え切れていなくても自分の心を踊りで表現してすがすがしい気分になろうと考えた。 踊っている最中に笛の音色が聞こえてきた、僕はその音色に乗って舞った。 これまであまり聞いたことの無いような楽しい…なんとも愉快な調子でした、踊っている中で不思議と余裕ができてきて、踊っている自分が癒されるようでした…。 笛の演奏の終了と共に僕も舞を終えた…うっすらと汗をかいていて…とてもすっきりとした気分でした。 彼は笛を置くとさかんに拍手を送ってくれました。僕は一礼をして去ろうとしました。すると彼が引き止めました。 「まあ徐錫、まだ行くのは早いだろう。すばらしい踊りだったぞ、今まで見たどの芸妓のよりもすばらしい。なあ、よければ少しこっちにこないか。」 「はい、ありがとうございます…僕でよろしければ。」 僕は彼の近くに寄った、そしてまずはお酌をした。 「お、すまないね。しかし今日の野良仕事は骨が折れたなぁー。」 「野良仕事…ですか。」 彼は一気に飲み干して空の杯を僕に向けてきた…僕はまた注いだ…。 「ああ、野良仕事だ。土地を耕している…山を切り開いて新たに耕地を作っている…春だからね、忙しいよ。こうやって土地と生きるのも悪くはない。人々と大地の恵みを分かち合っていくのも楽しい。」 ここのところ忙しいというのはこのせいだったのか…僕のところへ見舞いに来る頻度も減った訳だ。 「それより、まあ徐錫も一杯どう?飲めるかな?踊った後だからのどが渇いているだろう。」 彼は僕に一杯すすめてきた…僕はそれを受け取り一気に飲み干す… 「お、いい飲みっぷりじゃないか。踊りといいその飲みっぷりといい…徐錫、なかなかいいな。さ、どんどん飲んでくれ。あんな気持ちのあふれ出る踊りを見たのは俺は初めてだ。とても気分がいい。」 こうやって僕たちは杯を重ねていった…かなり酔いが回り…僕がふらつき始めたとき。僕を支えるあたたかいものがあらわれた…。彼が僕を抱きとめてくれていたのです僕はその中に沈みこんだ。 …あたたかい…。僕の薄れ行く意識の中、彼はこうつぶやいた。 「よかったら…ここにいて俺の為に踊っていてくれ…。」 彼の腕の中で僕は頷いた…ような気がした…これを最後に僕は意識を失った…。 そして翌朝、僕は何もなかったかのように与えられていた部屋の布団の中で寝ていた、若旦那さまが運んでくれた。と若い女中は言った。 こうして僕は昼間に農作業を手伝い踊りの練習をしたり、時には他の食客で一芸に秀でた者などと交わった。そして夜には女中の手伝いする一方で勉学や剣術修行に励み、また彼の相手をつとめさせていただいた…。こんな生活が1ヶ月続き…人から聞いたりして多くのことがわかってきた。 先代の大旦那と呼ばれた人は非常に人徳のある人物だったらしく、その評判をききつけて遥か徐州や潁川からも多くの客人が訪ねてきて、座敷には人があふれかえっていたそうで、宜都にその人ありと言われていたそうだ。 それを非常に妬んだのが同じ宜都の領主の一人である楊氏である。楊韓の叔父がその時には領主であり、かなりの吝嗇家だったらしく…食客らは自然と蔡氏のほうへと流れていった。土地の管理力が弱った楊氏の土地から盗賊団が現れた、しかし楊氏の対応は遅れた。盗賊団の力はかなり増徴してきた。 それの鎮定に駆けつけたのが先代である。 先代の活躍により盗賊団は山奥へと逃げ、山塞へと逃げ去った。そして盗賊団はそこでまた別勢力を築き、呉延・趙秀らの優秀な指導者を迎えて大成長を遂げた。 それに責任を感じた先代は、楊氏との協力を頼んでそれの討伐をした。 そんな抗争が数年続くうち、一進一退を繰り返してきて、次第に蔡氏はその勢力を衰えさせてきた。 しかも積極的に介入しようとしない楊氏は逆にその勢力を増してきた。 そして2年前、蔡氏と楊氏が共同で山賊に当たった時の事…先代は倒れた。 このときより楊氏と蔡氏の関係は険悪なものとなった、蔡氏の食客の一人が楊韓に誘い込まれたという話をしだしたからだ。 ことの真相はわからないけれど、蔡氏は楊氏と長年の確執などを考えると十分にありえることである。 そんな生活を送っていたある夜のこと…また僕はいつものように彼に呼ばれた…。 「蔡謙様、失礼いたします。」 彼は領主らしくしっかりした格好をしていた。 「おお、よく来たな、待っていたぞ。今夜は少し外に出たい。徐錫、ついて来い。」 僕は彼に誘われるがまま、外に行き…馬車に乗った。ちょうど朝晩の冷え込みも薄れてきたときのことです、その日は雲ひとつない綺麗な星空で月明かりが夜道を照らしていた。 僕たちを乗せた馬車は小高い丘を上がっていった、そしてその頂のあたりで止まった。 「徐錫、下りろ。着いたぞ。」 彼の声にしたがって降りる、そこは天には無数の星がまたたき、地には山河をはじめとして多くの集落が望める…そして同じ高さに連峰が連なっていった…。 「…いい景色ですね。」 僕は歩き続ける彼についていった。彼はちょっとした屋根と椅子がある休憩所のようなところへ腰掛けた。彼の目が僕に隣に座るように促す…僕は腰掛けた。 「そうだろ、いい景色だろ。ここはこのあたり全体をを見下ろせる所なんだ…まあまずはついてきてくれてありがとう。」 「いえ、とんでもございません。私こそありがとうございます…このようなすばらしい景色を見せていただいて…。」 「ははは、まあ気にするな。ふぅ…まずは一杯やらないか。」 すると彼は腰にかけてあった酒瓶をあけた。そして僕の分を注いでくれた。僕は慌てて彼の分を注いだ…2人がそれぞれ酒杯を持って…乾杯をした。 ここのお酒は臥竜丘で飲んだような上品な味ではなく、少し荒っぽい…辛口でもすっきりするような味がしました。僕たちはお互いにそれを飲み干した。 「ふう、相変わらずいい飲みっぷりだな、徐錫。」 僕は再び彼の酒を受けた…僕も彼に注ぐ…。 しばらくはお互いに言葉少なめで杯を重ねた。彼は下の集落に目をやっていた。そしてにわかに僕のほうに目をやった。 「よし、じゃあ、またそろそろ踊ってもらおうか。月明かりの舞台で踊ってくれ。」 彼は笛を懐から取り出して言った、僕は畏まって席を立った。 目を瞑る、両手を広げる…空気を体全体ですっと吸い込む…そして笛の音色が体に届くのを待った。 体で受けた音色はいつものものとは何か印象が違った…いつもの楽しげな様子は影をひそめ 代わりにに幽玄とでも言うような幻想的な感じと力強さがあった… 僕は目を瞑っていても感じる音色と月の光を感じてそれを活かそうと舞った。 自分が思い描いた舞ができることが嬉しい、笛を吹いている彼も目を閉じているのだろうか、踊っている身にしてみれば彼に見てもらいたいというのが正直なところだった。 けれどもあのときはどうだっただろうか、五丈原で諸葛亮の琴に合わせて踊ったとき…諸葛亮は目を閉じていたのだろうか?どうだったのだろうか、でも諸葛亮は満足していたと私は思えた。まるで僕が親父のようだったと言ってくれた。親子といっても似ているとは限らない…視覚でいえば僕と親父は別物だろう。 とすると…諸葛亮は視覚以外の何かで僕を感じていたのだろうか…彼はどうだろう…彼は僕の姿を見ているのだろうか…それとも諸葛亮のように何かそれとは違うもので感じていたのだろうか…。気になって少しだけ目を開けてみた…すると彼は目を瞑っていた…のだけれど、僕が目を開けたのに気がついたかのように微笑んだ、顔が少し緩んだのである。 僕は恥ずかしくなってすぐに目を瞑った、そして踊りに集中した…。 笛の音色が止み、僕も舞をやめた…うっすらと汗をかいていた。彼は拍手をしてくれた。 「うん、うん。やっぱり徐錫の踊りはすばらしい。いつ見てもいいものだ、特に今日はよかった。月明かりに照らされて美しいことこのうえなかったぞ。」 まるで見ていたかのように語った…やっぱり見ていたのかな…。 「僕の舞いはまだまだです、笛の音色こそ…すばらしかったです。聴き入ってしまいました。」 「なあ、どうして徐錫は自分のことを僕って言っているんだ、女なら…もっと別の言い方もあるだろうに…。」 彼は酒をゆすりながら続けた。 「ま…そこが徐錫ぽくっていいんだけどな。ああ、別に無理に変えなくてもいいんだぞ。徐錫らしくていいほうがいいからな。」 僕は…僕だ。あまり自分をこの呼び方以外で呼んだことはない。男も女もこういうのには変わりない…、でもあまり気にしなかった。彼のいうとおり僕は僕らしくいきたいからだ。そしてにわかに立ち上がって再びふもとの集落に目をやり語りだした。 「俺は…、俺はこの集落の人と大地の恵みを分かち合いながら生きてゆきたい。さいわいにもここのあたりの人々は勤勉そのもので…もうどの家屋にも光が燈っていない。明日の為に寝ているんだろう。…徐錫、あのひときわ大きい山を見てみろ。」 僕は彼が指差した方向を見た、そこには確かにひときわ大きな山がある。 「見えるか、あの山が…山賊が住んでいるという山だ。聞いたかもしれないが俺の親父を殺したとかいう山賊だ…けれどあまりそんなことは関係ないな。俺はそいつらと仲良く共存して行きたいと思っている。」 「えっ…、でも…。」 僕は思いも寄らない話に思わず声をあげた。 「まあ、最後まで話を聞けって。食客の一人が言うにはな…奴らは手口こそ荒っぽいながらもな、ちゃんと一国の経営をしているようなんだ。掠奪ばかりじゃなくて自分で農作物を育て…自治法を立て…まあ奴ら自身の地上の楽園を築いているようなんだ…呉延と趙秀もなかなかの傑物でなかなかの好漢らしい。それに奴らの勢力は強く、悔しいが俺では適わない。いつまでもいがみ合っていても仕方がない。…わかってくれるかな。」 彼の目は強い意志で一杯に溢れていた。 「ええ…それはすばらしいお考えです。恨みを徳に変えると仰るのですね…」 「恨み…か。」 彼は遠い目をした…そしてまた別の集落のほうを見た。 「うらみは…あるとするなら…楊韓のヤロウにあるかな…。あいつはダメな奴だ。…親父は奴が救援に来たら助かったかもしれないがな、親父もあいつが助けにこないことは多々承知していた筈だ…それなのに散ったのは親父に過失がある…親父は最後まで俺に従軍を許してくれなかった。俺の力不足もあるが一番はやはり野郎だろうな…一人息子の俺を死なせるわけにはいかなかったんだろう…。奴は…自分の利益にかかわることしか介入してこねえ。義侠ってもんがない。目先の利益しか見ていない…ダメな奴だ。」 そうはき捨てるように言って、彼は酒を飲み干した。僕は黙っていた…。 「っと、これが俺が今考えていることだ…。ふぅ、こんなところでしか自分の思いをいえないなんて…領主ってのも不便なもんだな。」 確かに今のことは領主として公にするにはやや行き過ぎた発言もあった…そんな話を僕に…。 「さあ、つまらない話に付き合わせてしまっちゃったな。まあ飲んでくれ、どんどん今晩は月の下で飲もう。」 僕の体は火照りきっていた…たまに吹く風がとても心地よい、それでも僕は酒を飲んだ…。 「まぁ、蔡謙様…お風邪を召されますよ…あまりこのようなところで寝てしまわれたら…。」 「へへへ…もう今夜は帰る気はない…。それに暖かくなる頃を見計らって来たんだ…君さえよければ、今日は…もう何も気にすることはない…さ。」 優しい風が僕の頬をなでた… 「私…でよろしければ…。」 錫伝(4)へ 企画TOPへ |