今夏、父が再び病を得て、弟が許してくれたこともあって私は父の見舞いに行くことができることになりました。 私は任地の徐州から都に帰ります、供は数人、できるだけ早く駆けつけられるように馬車も軽装、武装も軽装にしました。 むしろ軽装でも滅多に野盗などに襲われるようなことはなくなったのです、人々が農地を持つあるいは手に職を得て生産活動に思うように従事できるようになった…昔のような各地での小規模の戦がなくなり、平和で安全な場所が増えたといえるのです…。 そしてそろそろ私が幼い頃の記憶に出てくる景色が見えてきました…許都です。 私はそこに通ると必ず行く場所があります、そこは古く…蔦が壁を這いまわる小さな霊廟です。 供のものを宿に残して、私はその霊廟に一人…酒を抱えて入りました。 中は蜘蛛の巣が張り、位牌には埃が薄くかかっています…訪れ、祭祀をする人も少ないのでしょう。 そして私はそのなかにある一つの位牌の前に立ち止まり…地面に筵をひき、膝をつきました…そして位牌の文字を眺め、一呼吸おいて語りかけました。 「…久しぶりね、伯益…。」 暗い霊廟の中に私の声だけが響きます…。私は続けました。 「前に私が来たのを覚えてる…?あれは去年の今頃のことよ。父が病気になった時だけど…あなたのおかげもあって…なんとか治ったわ、ありがとう。」 私は脇に置いた酒を取り出し、封をあけ、位牌にそれをかけました。埃が流れ少しだけきれいになりました… 「…これはいつものじゃないけど私の任地ではかなり上質な地酒よ…、私もまあ好きなほうのお酒ね…。今日のお土産はこれだけだけど…。」 郭氏の霊廟は公式のものが洛陽にしっかりとあり、今でもそこは一族がしっかりと祭祀を司っています。 ここは郭奕が礼法に拘らずに先祖…特に父の郭嘉を弔うために作られた霊廟で殆ど個人の建物と変わりないのです。 儒教的な礼拝様式に関わらない作りをしており、小宴会を催すための設備すらあります…しかし主人を失い、今ではたまにその遺徳(?)を慕って当時の仲間が訪れる廃墟と化してしまっているのです。 私は小さな溜め息をつきました。 「でも…早いものね。あなたが天に召されてから今年で…もう17年、私も…ふふっ、若くないわね、もうすぐ四十路よ。小じわは顔に出てくるし…白髪も少し混ざるようになってきたわ…。私の夢に出てくるあなたはいつも若いわね…あなたは生きていたらもうすぐ五十路ね…もうお爺さんじゃない。」 思わず笑みがこぼれました、年上だった彼が私の記憶では若いままで年下だった私が順調に年を取っていく。至極当然なことだけども何か面白かった。 そしてその晩はそこの霊廟で泊まるのが習慣になっていました…今回もその例に漏れず宿泊しました。ここに泊まると不思議と必ず少し呑みすぎてしまうのも…当然のこととなっていました。そして意識を失うかのように眠りにつきました…。 「みなさん、おはようございます。では今日も都まで急いで行きましょう、お願いします。」 翌朝、許都で休んだ私たち一行は再び洛陽へ向けて進みました。 そして1週間ほどたった後の夕方、にわかに雨が降り出しました。父が病気なので移動を途中でやめるわけにもいかず進んでいきました。しかし雨は強くなっていく一方でした…。 「…参ったわね。」 雨のせいでかなり移動速度が鈍った私たちは次に目標にしていた宿場町まで夕方までたどり着くことができていませんでした。しかし雨は依然として強く地面を叩いています…仕方なく、せめて木陰で雨をしのごうとして全員に少し大きな木の下へ移動するように言いました…勿論雷は鳴っていませんよ。 秋とはいえそれは常緑樹でしたので地面はややしっとりと湿っていた程度でした。 「みなさん、今日はしばらくここで休んでいきましょう。雨やどりです。」 こう言って少し一息ついていると一人の従者が近づいてきた。 「陳獅様、ここの木陰に獣の骸が転がっておりました。どのような禽獣が迫っているかわかりません。ご用心を。」 「それはどのような獣でしょうか。」 従者は少し考えた様子でこういいました 「…猿か何かでしょうか。殆ど骨しか残っておりませんでした。ただまだ新しいものらしく…血が十分に乾いていませんでした。とにかくご用心を。」 「…ちょっと私も見てみましょう。どちらにありますか?」 ちょっとした好奇心に駆られて私はその従者についていきました。 「陳獅様、こちらにございます。」 提灯ににそれを照らしてみた…私は直感的に判断した猿なんかではない…と。 しかしそれにしても貪りとられたような跡、牙か爪で傷ついた骨、髄まで嘗め尽くされたように唾液がまとわりつく…そのさまは痛ましいものでした。 そしてその周りには血が水溜りをなしていました…私は顔をそむけたくなりましたがそれの正体を確かめたく思って、凝視しました。 手足と思われるものの長さ…損傷が激しい頭部、それらを全て考えてもそれは…考えたくはありませんけど人間のものだと判断せざるを得ないものばかりでした…だったらこのような残虐なことをしたのは何者か…しかしそれを考えるために…その赤子の残骸を見るのは耐えられなくなりました。 気がつけば汗が全身を流れていました…。 その日は雨が止んだのがかなり夜遅くだったので、そのまま野営をすることにしました。 「万が一」の襲来に備えて私は眠りにはつきませんでした。また供のものに亡骸を埋葬させ、供養させました。 その様子を見ていてふと思いました。 「…やけに小さかったわね…。まさか…!」 私はまた別の供のものに命じて「あるもの」を探させました…「私の勘が正しければ…」そう思いながら…いや、むしろ私の勘が外れることを信じて…待ちましたが、見つかりませんでした。 翌日は先日の遅れを取り戻すために空が白む前に出発しました。 「みなさん、今日はつらいでしょうが。先日行くはずだった所に昼までについてそこで昼食をとりましょう。そしてその後もがんばって今日つくはずのところまで一気に行きますよ、洛陽はもうすぐです。」 未明の道を私たちは進みました、秋も深まった頃のうえに前日の雨のせいでかなり体感温度は低かったです。 私は行く先に何か黒い塊を見つけました、瞬時に判断しました 「みなさん!止まってください!!」 私はそう言うや否やそれに馬車から駆け下りて近づきました…それはなんとうつ伏せに行き倒れている人間でした。 「大丈夫ですかっ、大丈夫ですかっ?」 姿を確認しようとして仰向けにする…私は驚いてしまいました…それは少女だったのです・・・。 かなり荒く呼吸をし、目は閉じられたままで…熱を出していて見た目からかなり弱っていることがわかります。体は泥や血で汚れ、服はところどころ破損が目立ち…すっかりとみすぼらしい姿になっていました。 私は見捨てておくのに忍びなく助かることを信じて彼女を馬車に乗せました、そして設備の整った洛陽の父の屋敷でしばらく世話を見ようと思いました。 「…みなさん、少し…急ぎましょう。この子のためにも…。」 私たちは彼女の輸送を第一に考え、次の村落で早馬を借りて私とその子、さらに屈強のもの2,3名のみで洛陽まで強行軍でひた進みました。苦しむその少女を気がつけば私は慈しむような目で見て…こう呟いていました。 「…もしも…あのとき…あのとき…。」 洛陽につき、父が療養する屋敷、いわば私の実家である屋敷へと向かいました。 その昔、父が洛陽に移り住んでから私は各地を転々とする生活を望んで始めたのです。 ですからこの洛陽の屋敷には何の思い出もありません。しかし幼い頃から親しんできた使用人らはそこにいる。それらの顔を思い出すと懐かしさが溢れてきます。…でも今回はそれどころではありません。 父の病気に行き倒れの少女、事態は一刻を争ったのです。 屋敷の門の前にたどりつくと門番は予定より早い私の到着とかなり驚いた様子でした、出迎えの準備も何も出来ていなかったようです。私は言いました。 「予定より早く帰ってきてごめんなさいっ。ここに急患がいます、まずは彼女を助けてあげてください。そして…父の容態はどうでしょうか?」 門番はこの少女は任されたと言った上で私を奥に導いた。 あまり馴染みの無い屋敷でしたが、私を待ってくれる人の中には古くからの知り合いもいてそわそわする心がすこし静められました。 そして少し大きな門の前に導かれました…あとはあけられたまま進んでいくだけでした。 出た部屋の奥の寝台には父がいました。私は深々と頭を垂れました… 「父様、獅です。帰ってまいりました…予定より早く来てご迷惑をおかけしたことをお詫び申し上げます。」 一瞬の間をおいて父の声が聞こえてきました。 「お…おお、獅か。よく来てくれた…早く来てくれてうれしいぞ…。ささ、早くこっちにきて顔を見せてくれ…。」 「はい。」 私は顔を上げて父のもとに近づきました、父は昨年にましてやつれて見えました。しかし顔色だけはよかったのでわずかに安心しました。 「獅よ…よくきてくれた…。これでまた生きる気力が少し沸いてきたよ。」 「父様、私が思ったより容態がよくて安心いたしました…。父様は陛下からの信頼も厚くまだまだ世に必要とされている存在…まだまだ長く生きていただけねばなりませんよ。」 「ははは…そうだな。しかし私とてそうそういつまでも生きていられるものではない。死後のことも考えなければならなくて頭が痛いよ。」 「まあ父様、武帝は何かと細かいことを侍女にまで言いのこされた聞きますが…本来は死後、生き残った人に全てを託して自らは安らかに死んでいくのがあるべき姿じゃないでしょうか?」 父は冗談めかして笑いながら言った。 「おい、それじゃあもう私は要らないとでもいうのかね。」 それに応えて私も笑う。 「いえいえ、そのようなことはありません。父様は先ほども申しましたように…必要不可欠な存在ですわ。」 それに…さっきの言はあの人の最後の言葉でした…。 と、あやうく口を滑らしてしまうところでした…それにかまうことなく父様はいいます。 「そういえば…泰の調子は最近どうだ?赴任先は同じなんだろう?」 私は泰から預かった手紙を父に渡しました。父様はそれを手に取ると読み出しました。 封がしてあったので私はそれを検めていませんが、父様が笑顔でうなづいているところを見ると決して悪くは無い内容なのでしょう。実際弟はよく働いています、評判もいいです…功績もある程度積んでいます。軍務に才がある…と私は見ています。まあ、月並みの言葉で言うと自慢の弟と言うべきでしょうか… 「ところで獅よ、少し耳に入れたお前は今日…誰か道中で行き倒れていた人を運び込んだらしいな・・・。」 「はい、少女でありますし…見捨ててもおけなかったので…。悪かったでしょうか?」 「いや、悪いことではない、むしろ徳行だ。こういうときのために蓄えた財ともいえる…好きなように治療をしてやりなさい。」 「はい、ありがとうございます。」 「ふぅ…獅よ。今日はいそいで訪ねてくれてありがとう。疲れているだろう、部屋の準備ができた休んでいなさい。まあ今日は私も久しぶりに会えて安心からか一気に疲れがドッと出たよ…。」 そういうと父様は布団の中に沈みました… 「父様…では今日はごゆっくりお休みください。」 ああ という声を確認して、私は使用人に連れられて自室に移動しました。 そしてその途中、かの少女の様子を見に行きました…。 部屋は客間でした。広さは10畳程度…その窓側にある寝台に少女は寝かされていました。 依然として荒い息で…苦しそうにしていました。 血や泥は拭取られていて、衣服も換わっていました…その顔は幼さが残るどことなく少年のような顔でした。 年の頃は16〜18といったところ…私はやはり無意識のうちに近寄って白い頬に触れ、手をにぎり、黒髪が美しい頭をなでていました。そしてやはり無駄だとわかってもこう思えてくるのです。 「…もしも…もしもあのときに……だったら。」 洛陽で過ごす間は主に父の看病とあの少女を見舞うことをしました。 父は少しずつ容態がよくなってきていて安心できます。 そして少女に関してもいろいろ少しづつわかってきました… わずかな持ち物や衣服に縫い付けてあったものから、名前は「徐錫」ということ。 持っていた二本の剣の一方で大きいが完全に折れて錆付いてしまっていたこと、それには「徐」と書かれていました。 そしてもう一方も折れてはいませんでしたがかなり朽ちていました。これには「徐錫 泰喧」と書かれていました…泰喧は多分字でしょう。 それより私を何よりも驚かせたのは…その少女は…妊娠しているということでした。 途中、何者かに手込めにされて産まれるべき命ではないのかもしれない…などいろいろ考えましたが、下手に下ろすのも少女に危険が及びますので、最後はその少女の判断に任せるという形で…寝ている中、蜜を口に流し込むなど栄養をより多くとらせるようにしました…いまだ目を覚ましませんが、苦しい息をする回数はかなり減ってきました。 私は少女の小さく膨らんだ腹部をやさしくなでました…。 「…何ですって!伯益が…。」 馬を飛ばして行った先には見知った部屋がありました。 10畳の広さで独特の雰囲気のある部屋…そこの窓側にある寝台に彼は寝ていました。青い顔で目を開いて彼は言いました… 「これはこれはお嬢さん、よくきてくれたね。また酒と遊びがいきすぎたようだ。ま、心配することはないよ。」 ・・・ 「ふぅ…、なかなか今回は根が深いな…。まあ大したことはないからいいけど。見舞いに来てくれる人も多いしね。」 ・・・ 「・・・また来てくれたのかい。嬉しいねぇ…もう治らないほうがいいかもしれないね…。え?何を怒ってるの??」 ・・・ 「俺もよく考えれば30代…親父もこれくらいで死んだんだよなー。俺の家系って呪われてるのかな…。」 ・・・ 「…ん?何かやりたいことはないかって?それは山積みだけど…まずはお前を抱きた…って、冗談だよ。まあ好き勝手生きてきてこの期に及んで何もないさ…あとは元気な奴の仕事、休んでる俺の分もがんばってくれよ。」 ・・・・・・ 私は位牌を持っていました… 「伯益の…バカ…っ!」 グサリと位牌を刺しました、暗い霊廟の中で… 「なんで…先に逝くのよ…」 ・・・ ・・・・・ ・・・・・・・・・ 「はぁ…はぁ…はぁ…。」 私は周りを見渡しました…何の変わりも無い自分の部屋です、額に手を当てると汗でびっしょりでした。 「…夢でした…か。」 布団は乱れ、秋なのに寝汗で掛け布団がすっかりと湿っていました。 私は寝るつもりはなく目を開けながら今の夢を反芻しました… 夢の中の伯益は顔が出るたびに衰えていきました…頬はこけ落ち、顔色は悪くなり、弱っていく姿がはっきりと夢に出てきました…それは私が見たとおりでもあります。 しかし、目だけは活きていました、最後の彼の記憶でさえも…目は生きていました、これも私が見たままです。 「・・・・」 それから私の思考は自然に止まりました…しばらくの後、少女の容態が気になって寝台から出ました。夜はまだ明けていませんでした。汗で湿った着物に風がつめたく感じられました… まだ暗い廊下を進み、目的の場所のドアを開ける…夜目が利いてきたので燭台の明かりをつけませんでした。 少女はいつになく安らかに眠っていました、熱もだいぶ下がってきてもう屋敷にきて1週間近くなるのに何故目覚めないのだろうと思い、心配になってきました。 私は少女のずれた布団を掛けなおして…椅子に腰掛け、少女の手を再びやさしく握りました。 すると、ぎゅっと握り返してきた…ような気がして顔がほころびました。 そしてそのまま眠りにつきました…。 「・・・これくらいになっていることでしょう…に。」 「父様、調子はいかがでしょうか。」 「ああ、今日も調子がいいよ、ありがとう。」 私は父の身の回りの世話をしていました、といっても殆どが話し相手になるだけでしたけれども。 私がいない間に中央はどうであったかの話が主たることでした。 「…明帝が即位された頃は立太子された頃から考えるにもっと混乱するかと思ったのだがな…全員の尽力のおかげで・・」 その時、入り口のほうから女中が駆け寄ってきて入り口にいた使用人に耳打ちしました。 「どうしたのだ?」 「はっ…瑠璃さまがつれてこられた少女が目を覚まされたそうです。」 それを聞くと父は顔をやさしくさせて 「行ってきなさい、獅。私はいいから…。」 「父様、ありがとうございます…。」 私は父に深く礼をすると全力で少女がいる部屋へと走りました。 とにかく会いたかったのです、会って話がしたかったのです…どういう子なのでしょう…。 私は導かれるままに部屋に入っていきました…。そこには一人の少女が夕日を立って見ていました…空と一緒に少女も無表情のまま真っ赤に染まっていました。 私は少女に歩み寄りました… 「…おはよう。よかった…やっと起きたのね…心配したのよ。」 その言葉はまるで少女の耳に届いていないようでした…しかし私は続けます。 「あなた…徐錫っていうのね。私は陳獅…字を瑠璃っていうの…ここは洛陽よ、徐錫。」 徐錫という言葉に少女はやや反応をしました…そして無表情のまま言いました 「…私の…子は…。」 次に私のほうを振り向いて言いました。 「私の…赤ちゃんはど…こ?」 話してくれた…私は嬉しさを隠しきれず、少女の腹部をなでながら言いました。 「いるわよ…あなたのおなかの中に…ちゃんとね…。」 少女は安心したような顔になった…気がした、そして再び赤い空を見上げて言った。 「ねぇ…、私は…誰?」 「!!」 …記憶喪失…? 「私は誰?あなたは…何か知っているの?」 「あなたは姓を徐、名を錫…字を泰喧と言うはずよ…わかる?」 少女は目線を下ろしてああ、と溜め息混じりに声を発しました。 「徐錫は…私の名前だったのね…、なんとなく聞き覚えがあったから…。」 そして少女は私を見つめました…さっきよりいっそう無表情になって…私はやや窮しました。 「えっと、さっきも言ったかもしれないけど私は陳獅、字を瑠璃って言うの…見てのとおりのおばさんよ。ここは洛陽…あなたはね、洛陽の周辺で倒れていたところを私が連れてきたの…1週間くらい寝ていたのよ。」 それから少しの間があって…少女が切り出しました。 「あなたは………。」 「え…?」 「あなたは…私を殺さないの?」 私はそれの意味するところがわかりませんでした。 「な…何を言っているの…?そんなことはしないわよ…。」 「…ごめんなさい。なんだか変なことを訊いちゃって…、でもなんだか気になっちゃって…赤ちゃんがいるかどうかも…訊いてみないと不安になるのと同じ感じで…。」 空は闇が支配してようとしていた…少女は私を見つめていた、いつしか少女は寂しそうな表情をしていた…。 「大丈夫…大丈夫よ…。」 私より背の高いその少女を私は包み込むように抱きました。 「大丈夫…私が…あなたを守ってあげる…。あなたも…赤ちゃんも…、だから…安心して…。」 少女の体は冷え切っていた、やや硬直していたその体をやがて私に委ねてきた… ずしりと私の体に重くのしかかってきて…私は倒れてしまいそうなところをなんとか堪えた。 ・・・大丈夫…私が…守ってみせる…! そう決意を新たにしました・・・。 何か思い出す綾になるかもしれないと思って、その日から私はできるだけ多くの書物や楽器などに触れさせました。すると驚いたことに四書五経はまるで過去に読んだことがあるかのように一度目を通しただけで理解し、兵法書すら同じようでした。 楽器も見事な奏で様で琴や笛を少し練習しただけで操ることができるようになりました。 この子は…只者ではない。と私は思わざるを得ませんでした、それで尋ねてもやはり知らないを繰り返すのですが…読んだことはある、触れたことはある。と言いました…これは多芸のものだと感心していると、楽譜に無い曲が聞こえてきました…。 それはやけに愉快な笛の音色でした、支離滅裂のように聞こえてそれは豪放磊落という言葉が似合う音色でした…私はこの曲を知りませんでした…私はそれに聞き入ってしまいました。 吹き終わると…少女は初めて笑顔を見せました。 「…どうでした?」 私は微笑み返しながら答えました 「いい曲だったわよ…私は初めて聴くけどいい曲ね。楽譜に無いけどそれは自作?」 「自作…ではないと思う、でもなぜか知っていた…というより体に染み付いていた。楽しい曲…。」 「ねえ…もう一度聴かせてくれないかしら…気に入っちゃった。」 「はい。」 笑顔のまま少女は笛を口に運んだ…そしてあの音色を出し始めた…。 私が出て行っても夜がふけるまでその笛の音は屋敷の中を駆けていった…。 「…のう獅…。」 「はい、父様。何かございますか?」 翌朝、私はいつものように父の身の回りの世話をしていた。 「昨日…屋敷の中を流れていた笛の音だが…あれは誰が演奏していたのかな?」 「あれは徐錫のものでございます。なかなか愉快な音色ですね。」 「徐錫・・・?ああ、例の少女か…元気そうで何よりだ。そのうち顔がみたいな…・。」 「そのうちに父様にもお目に掛けましょう…ところで…あの曲が何か…?」 「うむ、曲名がちょっと気になってな…あれは前に聞いたことがある…確か江南のほうの曲だと記憶しているぞ。」 「へぇ…江南の…。そういえば彼女は体に染み付いているとかなんとか言っていましたわよ。もしかしたらそっちの方の出身でかなりの名家に生まれたのでしょうね。」 「うむ、博識ぶりは私の耳に届いている…そうだろうな。そちらの方面に詳しい者にあたったら…正体がわかるやもしれぬ、私も彼女が気になる。協力は惜しまないぞ。」 「ありがとうございます。もう少し彼女にいろいろやらせてみて…記憶の綾を繋いでみせますわ。」 「ああ、そうしてくれ。…それに赤子はどうかね?」 「順調に育っているようです。…6〜7ヶ月目と医者はもっぱら言っております。何か記憶を取り戻す鍵になってくれるといいのですがね…。」 「そうだな…それだけではなくまるで曾孫ができるようで楽しみだよ、ははは…。」 「曾孫って…父様…。」 ・・・やっぱり…もしもあの時に…あの時に…できていたら…、これくらいになっていただろうに…。 その日の昼頃、私は徐錫の部屋へと行きました… 部屋からは昨日とはまた違う曲が流れてきていました… 徐錫は昨日に増して表情が柔らかくなっていました…そして少し少年っぽい顔になっていました。 「徐錫、今日は昨日とはまた違う曲ね、また何か思い出したの?」 すると徐錫は演奏をやめて…まるで少年のような笑顔で言いました。 「この曲も…思い出した。ほかに…なんだか思い出したことがあるけど…。」 「思い出したの?何を…!」 「思い出したけど…、まるで夢のようなことで覚えてない。」 「昨日の曲が…思い出させてくれたの?」 私は徐錫のとなりに座りました。 「多分そうだろうけど…もうあの曲はいい。」 「いいってあなた…、どういうこと?」 少女は窓から空を見上げて言いました 「…わかんない、けれども…あの曲はもう僕にとって要らない…。そんな感じがする。」 「要らない…ね、あなたが判断するならそれでいいわ。」 「でも…何か探さないといけないって…僕は思うようになってきた。何か大事なものが僕のところには今はない、そればかりを考えてたら…さっきの曲を思い出したんだ…でも」 少女の頬を涙が伝った。 「でも…でも、何かが…何かがない。大切なものが無い…それはおなかの中の赤ちゃんも大事だけど…、なんだかそれ以上に大切なものが無いような気がする…。何か思い出せ…思い出せるとおもって…これを吹き続けているんだけど…何も…何も…何も思い出せられないようー!!うわぁああ!!」 少女は火がついたように私に泣きついてきた。私は強く抱きしめた… 「大丈夫…きっと思い出すわよ…きっと。大丈夫、大丈夫…。大丈夫だからっ…。」 少女は泣き続けました… 私にはそれを止める術が思いつきませんでした…強く…強く抱きしめました。少女も強く私にしがみついてきました…力があまりに強く、私は苦しくなりました…でもそのまま耐えました。 涙ですっかり私の着物が濡れてしまった時…、少女は疲れきって眠りにつきました。まるで子供のように…いったん寝てしまえば安らかな寝顔を見せてくれます…私もそのまま温もりを感じるようにしながら眠りました…。 それから三日間、かの音色が響きました。 どこか物寂しい曲です…いい曲なのですが確かに何かが無い…そう感じさせられます。 私は父なら何か知っているかもしれないと思い、父のもとへと走りました。 「ふむ…今、聞こえてくるこの曲が何か…と聞いているのかね。」 「はい、父様ならば何かご存知なのではないかと思いまして…。」 「しかし生憎ながら…私も耳が遠いせいかあまり聞こえないのだよ…前のように音量が大きくないからね…。前々から何かが流れているとは思っているのだが…。そうだ、ここに来て演奏してみなさい。」 そう、まだ父様は徐錫と会っていないなかったのです。私はいい機会と思ってそれを快諾しました。 徐錫もそれを理解してくれて受けてくれました… こうして私の隣に琴をかまえた徐錫がいて…それを寝台で父が聞いているという形になりました。 はじめは緊張していた徐錫も少し話をするうちに打ち解けて、助けてもらった恩返しという形で演奏する形になりました。 演奏が始まると父はすこし顔をしかめて聞き入っていました…ある一小節で父は突然歌を口ずさみ始めました。 「歩して斉の城門を出で 遥に望む 蕩陰の里 里中に三墳有り 塁塁として正に相い似たり 問う是れ誰が家の墓ぞ 田疆古冶氏 力能く南山を排し 文能く地紀を絶つ 一朝讒言を被り 二桃三士を殺す 誰か能く此の謀を為せる 国相斉の晏子なり」 歌の終わりは演奏の終りと合っていました。そして何か足りなかったものは歌声によって補われました。 徐錫を見るとはらはらと涙を流していました… 「…今の歌は間違いなく梁父の吟。それに曲をつけたものだ…これが作られたのはそんなに古くは無いぞ…。いや、詩それ自体はかなり昔からあるが旋律がついたのは最近だ。私も聞いたのは回数的に少ない…誰かがその昔に宴会の席で歌って聞かせたのをはっきりと覚えていてな…。いや、それを髣髴とさせるものだった、いい曲を聞かせてもらったよ、ありがとう。」 「徐錫…どうしたの?」 涙の中、安らかに少女は語りました。 「…はい、すいません。少し思い出したことがありましたので…僕の名前は間違いなく徐錫…泰喧といいます。つたない演奏を聴いていただいてありがとうございます…」 そういうと徐錫は部屋から走り去りました… 「あ…待ちなさいっ…。」 「獅、追わなくてもいい…。もしかしたらあれは…あれかもしれん。獅よ、そういえばお前は徐錫の剣を持っているとか言ったな…それを持ってきてくれないか。」 「は…はい。少々お待ちください…。」 私はしまっておいた剣を持ち出して父に手渡しました…すると父は剣を見つめ、長嘆息をしました。 「間違いない…これは徐君の剣だ…。しかも丁寧に名前まで彫ってある…。なんとしたことか…。」 「?父様、どういうことでしょう?」 「うむ…梁父の吟で思い出し…この剣で確信した。あれは今は亡き徐庶の娘ではないかと私は思う!」 「徐庶…?それは一体誰でしょうか?聞いたことがありません…。」 「そうか…お前は知らぬか…、よろしい。説明しよう…あれは…今から25年位前のことだ…、武帝が荊州を落としたときのこと、一組の親子がこちらに降った…その母はやがて死に、その息子が残された。そもそも母がこちらに捕われたからやむを得なく降った者ゆえにあまりこちらに出仕する気が無かった…それを見かねた孟建という者が私に彼を才能があるから登用するように…としきりに推挙してきたのだ。それが徐庶だった…母の祭祀をつかさどるために潁川のほうに霊廟を立て引きこもって極貧生活を送っていると聞いた私はその孝の心に感じて、再三仕官を勧めた。しかしそのたびに拒否された。ならば私の家の事務を手伝わないかといってようやく腰を上げてくれた…。引きこもりがちの彼のことを考えて…まあ家にいながらもできる事務をさせる仕事を割り当てた。たまに宴会に招いて一対一で話し合ったものだ…博識さはなかなかのもので剣や舞踏などの才にも恵まれていた。そういう男だ…。」 「孝行ですことね…しかし私はそんなものがいることを全く存じておりませんでした。」 「それはそうさ…目立つことを彼は極端に嫌った。だから私も意識的にその名を出さないようにしたのさ…。さて、そんな彼だが…娘がひとりいた。その娘がな…昨年に旅立って春先に手紙が届いたのを最後に消息を絶ってしまったのだ。そして手紙を受け取ったときすでに病が篤く受け取った次の日、亡くなったそうだ・・。」 「まあ…それは…お気の毒に…。でもそんな彼女がどうして…。」 「それは旅先で何があったかは私にもわからない。しかし分からないことはもうひとつある。旅立つときには彼女はまだ幼名だったはずだ。成人の儀を済ませたとは聞いたことがない。徐錫という名であるはずが無い。」 「あ…。」 「その間…さっき言ったように手紙のやり取りはおろか全く音信不通だったらしい。だから…その名は自分で名乗ったのかもしれない…のだが、またここで事態を混乱させる事実がわかってきた。それは去年の秋ごろ差出人不明の手紙が届いたことだ…それがな、私が不審に思って調べてみると…なんと蜀の諸葛亮からの手紙であることがわかった。」 「え…?まさか内応…??」 「いや、そうではないだろう。お前は…去年の夏頃に宛のあたりでおきた起きた土豪の殺人を知ってるか?」 「いえ…存じておりません…。それが何か…。」 父は机の上にある紙をとるように言いました… 「その人相書きを見てみなさい…。」 私は見るなり言葉を失いました。そこには罪状:殺人と書かれた人相書きがあったのですが、その顔はまさしくあの少女のものでした…。 「と…父様、これは一体…。」 「書いてある…通りだ。これを5日後に私が取り消させた…。手を焼いていた土豪だったしな…。そしてそれで他国に亡命したということは十分に考えられる。しかも諸葛亮と徐庶はその昔、親交を結んでいたそうだな。」 「…つまり諸葛亮のもとに行ったと…。そして江南のほうにも行ったということですか?」 「推理としてはそうだろう、で…どうして子を身ごもって…一人、行き倒れになっていたのか…というと…うーむ…。」 「キャアアー!」 突然屋敷全体を叫び声が駆け抜けました。 「な…何事です!」 私は廊下へと走り出ました、女中がすぐに走り寄ってきました… 「瑠璃様、大変です!泰喧さまが…楼閣から身を投げられましたっ!!」 「何ですって!!」 「…奇跡的に骨などに異常はございません…、出血は酷うございますが…命に別状はございませぬ。ただ…赤子は…どうなるか…、流れる可能性も残念ながらございますので…産婆を別に用意されることをおすすめいたします。では…」 「ありがとうございます…」 侍医を礼で見送る…そしてすぐに目を徐錫のほうへ向ける…。 少女は包帯だらけで眠っていた、止血は成功し一命をとりとめたそうだ…。 2日後に目を覚まし…むくりと起き上がってひとこと・・・ 「どうして…死なさせてくれなかったのですか…」 その一言が終わる前に…私の平手が飛びました。パンという乾いた音が部屋に響きます… 「あなた…なんで死のうとなんかしたのっ!どうしてそんなことが思いつくのっ!!そしてよくもそんなことができたものね!!!」 頬をおさえ、涙ながら怯えたように少女は語りだしました… 「おもいだしたんだ…。ぼ…僕は…、愛していた夫を喰らい…道途で遭う者を殺しては喰らい…最後に…僕は産まれてきた子までも喰らった…。」 「な…何を言っているの…?」 「あの歌で僕はかなりのことを思い出した…人を殺めたこと…名を諸葛亮からもらったということ…宜都で拾われたということ…そこで愛を交わしたことも…。でも…途中から僕が僕でなくなっていく!!」 少女は取り乱していく、私はそれを抑えようと必死になだめようとする 「でも僕は間違いなく…人を喰らった。愛するものを喰らった。罪の無いものを喰らった…そして自分の子すらも喰らった…今でも思い出す…あの味を…血の味を…肉の味を…骨の髄の味を…。僕だけがのうのうと生きているのはおかしい…!!」 …自分の子を喰らった…?なら今、この子のおなかの中にいるのは何なの…?ありえない記憶を混乱してみているのでしょうか?そして諸葛亮から名を貰った…人を殺めた…。これは何を意味しているのか…私のほうが混乱してしまいました。 ザアアァァァ…とにわかに大雨が降ってきました。 私はふとあの風景を思い出しました…同じ雨の日、私が木の陰で見た人間の残骸を…。 まさか…まさか…!!私は不安を打ち消すためにも少女に抱きつきました…今回は自分の不安を消し去りたかったのもありました。 「…とにかく…バカなことはいっちゃ駄目。あなたは誰であってもいいのよ…。それに、生きているからこそ、その罪を償うことができるのよ…。あなたは…まだおなかの中にいる子のためにも絶対に死んだらだめ…あなたはあなた一人の体じゃないのよ。あなたの名前は徐錫、泰喧…立派な人から貰った名前があるじゃない。あなたの父も泣くわよ…このままあなたが死んだら…。だからお願い…死なないで…。」 「僕の…父?」 「そう、あなたのお父さん…。」 「…思い出せない…どうして…とても大切な存在であるはずなのに…」 抱きついているので表情は確認できなかったけど震えが伝わっていることを考えると…また泣いているのでしょう…また笑顔が見たい…。でも…既に父が他界しているなんてとても言えなかった…、親子関係がどうであったかもわからない…迂闊には言うことができなかったのです。 私はここで一計案じました。 「徐錫、ちょっとここで待っててね。あなたに見せたいものがあるの。」 そして部屋を出る前にこういい残した 「…いい?とにかく死んだら駄目よ。あなたの死を悲しむ人もいるんだから…、ね。」 私はすぐにそれを持ってきた…両手にそれを抱えて…自分でもどうしてそれをもっと早く出さなかったのかと後悔しながら廊下を走りました。 「ただいま、徐錫…。」 私は声を出すのをやめました。というのも徐錫はお腹をさすりながら涙を流していましたからです・・そしてこう語りかけていました。 「…ごめんね…、ごめんね…。私のせいであなたも死んじゃう所だったのね…あなたには何の責めも無いのに…ごめんね…許して…許して…。」 「許してくれるわよ…。」 その声に少女はハッとして顔をあげました。 「許してくれるなら、きっと元気な顔をみせてくれるわ。あなたはそのために…生きて…生きて…たくさんの栄養をとらなきゃね…。」 「…はいっ…。」 私は剣を出す時をすっかり逃してしまいました。 「ところで…その後ろに持っているのは何ですか…?」 「え…?ええ、これは…あなたの持っていた剣よ…。ほら…あなたの名前がここに…。」 私はまず小さいほうの剣を渡しました…そして痛んだ刀身を見るなり震えだしました… 「…これで…僕は…多くの罪の無い人…を…。」 しまった、と私は後悔しました。もう徐錫にとって剣は必要の無いものだったのかもしれない。それを彼女の残虐な記憶を呼び起こしてしまっただけ… 「で…そっちの剣は…?」 意外にも徐錫はすぐに正気に戻りました…私は少し戸惑いましたが言われるままに大きいほうの剣を出しました。 徐錫は無言で刀を抜くなり・・折れているのに気がついてさめざめと無表情に涙を流しました。 「徐錫…。」 私は心配になって呼びかけました… 「…わからない…ただこの剣が折れているのを見てると…自然と涙が溢れてくる…。」 大きな剣のほうは確かにぽきりと折れていたのです… 「徐錫…だったら、自分で直してみたら?」 きょとんとして徐錫がこたえました 「直す…?僕が…?」 「そう、あなたが直すのよ…大切なものを自分で治す…もしかしたらあなたの記憶も…つながるかもしれない。ここには鍛冶の施設があるわ。体が治ったらぜひともやりましょう!いえ、やるべきよ。」 私は徐錫の手を強く握りました。徐錫は一瞬戸惑った後…強い決意を込めた目で 「はいっ。」 と言った。 徐錫の体は11月頃には完治する驚くような生命力をみせました。 そして今、私の目の前で鎚を振るっているのです…。 「どう、錫…調子は?」 私は差し入れに昼食を持ってきました、練習のため昼夜を問わず何本も剣を打っているのです。 「あ、瑠璃さん…ありがとうございます。…これが終わったら休憩します…。」 「そう、じゃあ待ってるわ。」 この間、かなり徐錫は打ち解けて私を字で呼んでくれるようになりました。そんな徐錫を私は可愛がりました… 「ふぅ…お終い…っと。ささ、ごはん、ごはん…。」 「ふふ、慌てないで…。さあ、召し上がれ。」 「いただきまーす。…うん、おいしい。」 「そう、私も作った甲斐があるわ。あるだけどんどん食べてね。何せ2人分ですしね。」 「へへへ…そういうこと。僕だけじゃないんだよね。」 「ところで…今は何を作ってるのかしら?」 「ん…僕の短刀だよ…、そろそろちゃんとしたのを作れるようになってきたから、自分用のを作ろうと思って。」・ 「そう、それはよかったわね。だんだん腕をあげて…自分の剣を直すことができるようになればいいわね。」 「うん…でも瑠璃さん。」 少し徐錫が視線を落とす 「何?」 「この子が産まれて…大きくなる頃には生きるための剣は必要じゃなくなるかな…?」 その一言に私は深いショックを受けました…生きるための剣…この意味を私は深く考えました。 公安局にいた若い頃、時として私は剣を手にとって平和のため…みなが生きるために戦ってきました。 そして今、弟の補佐のために策を巡らして…時には戦線に鎧に身を固めて出ることがあります…勿論、私が、そしてみんなが生きるために…。 剣は何のためにあるのだろう…そして徐錫は何を思って剣を打っているのだろう…私は本当に軽い気持ちで剣を直すように言ったのです…。それが彼女に何をもたらすかも考えずに… 「…ぇ、瑠璃さん、瑠璃さん。おーい。」 「え…、あ。はいはい…どうしたの?」 「変なの、いきなりボーっとしちゃって。そうそう、ごちそうさま。」 「ま…、もう食べちゃったの?あらら…早いわね。足りたかしら?」 「うん、十分。すぐにまた打たなきゃいけないからね、食べたら動けないでしょ?それにこの子が生まれる前に親父のことを思い出さなきゃ。」 「それもそうね。じゃあ、そろそろ直してみたらどう?おととい作った包丁があったでしょ、あれ…とっても使いやすいわよ…厨房でも評判よ。」 「え?本当!?もう2、3本作ろうかな?喜んでもらえるなら…!」 「ふふふ、それもいいけど、早く剣を直さなきゃ、赤ちゃんが待ちきれなくなって出てくるわよ。」 「と、そうだったそうだった。早速明日にでも打とうかなー。うん、そうしよう!じゃあ瑠璃さん、僕がんばるよ。」 屈託の無い笑顔がそこにはあった。 ・・・もしもあの時に私にも子供ができていたら…、この子くらいにはなっているでしょうに…。 翌朝、私は鍛冶の仕事場に徐錫といっしょにいました。 「成功しますようにっ。」 一緒に手を合わせて天に祈りました。 そして徐錫は折れた剣を手に取ると、よしと言い私のほうを振り向きました。 「ねえ、瑠璃さん。とっても悪いけど…今回は私一人で打たせてくれない?」 「いいわよ…でも絶対に成功させてね。ゆっくりと剣と語り合って。応援しているわ、がんばって、信じてるわ。」 私は徐錫の背中をポンと叩きました。 「ありがとう。うん、絶対に成功させるよ!瑠璃さんが僕と赤ちゃんのために晩御飯を作っていてくれれば絶対に成功するよ。」 「まあ…わかったわ、腕によりを掛けて作っておきます!」 「うん…、じゃあそろそろはじめるね。」 がんばって…私はそう思いながら仕事場をあとにしました。 ・・・カン・キン・コンとリズムがあるのかないのかわからない彼女独特の剣を打つ音が父の部屋まで聞こえてきました。 「おお…今日もやっておるのう…。どうじゃ、獅よ順調にいっておるかね?」 「はい、とうとう今日、剣を直すそうです。」 私は居ても立ってもいられず、父と話をしながら昼を過ごすことにしました。 こうでもして気を紛らわせないと心配でどうにかなるような気がしたからです。 「そうか…何か記憶につながればいいのだがね…。」 「まったくですよ。」 こうやって話している間にもカン・キン・コンという音が聞こえてきます、その音の周期は時に早くなったり遅くなったり…緩急がありまるで踊っているようでもありました。 「ところで獅よ…。最近私は死が怖くなくなってきたよ…。」 「え…、父様…何を…。」 「いやいや、変な意味で取らないでくれよ。私は生きている限りは精一杯やる気だし…曾孫の顔を見るまでは死ぬつもりは無い。ただな、私一人の死は大したことは無いし、私の後には仲達殿が居る。彼が名士を引っ張ってくれるだろう。それにお前も…玄伯も有能で何も心配することは無い。その上…死後の世界というのも楽しそうだ…武帝もいれば…郭嘉も居る…さらには古の賢人らに会えるとしたらそれは楽しいことではないか…。」 父は遠いほうを見ていた…私は縁起でもない…と思いましたが…まさしく彼と同じ境地に至っているのかと考えると…何もいえませんでした。表現方法が違うのはこの際問題ではありません・・・。 「獅よ、それにしてもそろそろ日が沈んできた…腕によりを掛けて作るには…そろそろ動き出さなければならないのではないかな?」 はっとして空を見上げると赤く染まりかけていた。 「そうです、こうしてはいられません・・・知らせてくれてありがとうございました。では失礼します…。」 一礼をして厨房に走った…お腹をすかして作業をしているあの子のためにもおいしいものをたくさん作らなければ…そう思うとよりいっそう急がれた。 料理が出来上がった頃にはすっかりと日は暮れていました。 鍛冶場からは音が聞こえてこないのでもう先に終わってしまったかな…と思ってしまいました。 とりあえず、鍛冶場の入り口に来ました…何やら物音がするのでまだ作業中なのだろうと思って そこで待つことにしました。 待つこと数分…中から声が漏れてきました。 「で…できたっ!!」 私はたまらず中に入りました…そこには一本の長剣を天に掲げる徐錫がいました。 すると徐錫はその場にへたれ込み、剣を抱えて涙を流しはじめました…。 「親父…ごめん、親父から預かった剣…折れちゃったよ…。でも…でも…もっと丈夫にしたよ…!!」 ひとしきり肩を震わせて泣いたかと思うと、立ち上がって両手を空に振り上げました 「もう僕は花梨じゃない!!徐錫 泰喧だ!!」 ははははは…と笑った後、再び脱力して涙を流しはじめました。 「親父…ぃ。なんで…何で死んだんだよ…これじゃあ…目標を達成できないじゃないか…。」 その場に泣き崩れる徐錫…でもおかしい、どうして父が死んだことがわかったのだろう? 「徐錫…おめでとう…。完成したのね…。」 私の存在に気がついた徐錫は涙を拭い…向き直りました。 「はい、完成いたしました…。丈夫な長剣を作りました…もう決して折れないように…。」 「そう…じゃあそれが答えなんじゃないかしら。」 「え…?」 「親と子が一つになることができた…それは決して折れたり・・・切れたりしない最高の絆…あなたの父…徐庶はそれを確かめたかったんじゃないのかしら…。」 「絆…親父…。うっ…。」 徐錫はこみ上げてくるものを必死でおさえましたそして炉の方を指差して言いました 「僕が…剣を溶かし始めたときにあそこに何かでてきたんだ。はじめはあまり気にしなかったけど…次第に心に語りかけてきたんだ…それに対して僕は鎚を叩く音で答えた。すると・・いろいろ思い出されてきて…叩く手も次第に軽くなってきて…。とにかく、僕は全てを思い出したような気がする、それだけじゃなくて…いろいろ乗り越えたような気がするよ。」 「いいえ、気がするじゃなくて…あなたは乗り越えたのよ…過去も記憶も何もかも…。錫…よくやったわね…。」 「でも…一つだけない記憶があるんだ…」 「…そうなの…でも、そういうのは作っていくものなのよ。これからね…。」 「母さんの記憶が僕には無いんだ…だ…だから…。」 少女は顔を赤くして戸惑って言った。 「だから…母さん…って呼んで…いい?」 まるで子供のような上目遣いで私を見てきたのです…私はその返事の変わりに…徐錫を抱きしめました…。 「母さん…お母さんっ!!」 「錫…」 私の頬を一筋の涙が伝いました… グゥウウ… 静寂を切り裂くのは腹の虫… 次に聞こえてくるのは…そうなるのが当然のように笑い声でした…。 「母さん…お腹すいた…。」 「はいはい、仕方ないわね。もうできているからあとは準備するだけよ。」 「はーい。」 こうして私たち親子の生活が始まりました… まさしく夢のような幸せな時を過ごしました。 父も孫ができて喜んでいます、ますます曾孫のためにも死ぬわけには…と意気込んでいます。 じゃあ…私は40にもなっていないのに孫ができてお婆ちゃんになっちゃうの?とか思うと少し悲しいやら嬉しいやら…フクザツな気分です。 そして流れるように時は経ち…12月の終わり…年末のある日、徐錫を陣痛が襲いました。 いよいよ臨月です…。 屋敷全体がそわそわとしていました。 私も気が気ではなく…父のところにいました。 「これこれ…獅、もうちょっと落ち着きなさい…。」 「あ…あら、わ…私は平然としていますわよ…。」 「はぁ…これだから…。」 一日千秋…この言葉が最も痛烈に感じられた日でした。 そして… 「おめでとうございます!元気な男の子でございます!」 「あ…」 私は全身の力が抜けるのを感じた…。 「よかったぁ…」 「よし、私も会いに行くとしよう…おい、誰か、私と獅の肩を少し持ってくれ。」 私と父は女中に肩を支えられながら徐錫の部屋へと向かう…これじゃあお婆ちゃんじゃない…本当に…。 徐錫はすっかり疲れた様子で寝台に寝かされていた… そしてその傍らには…しっかりと珠のような赤ちゃんがいた… 「錫…、よくがんばったわね…。」 私は徐錫の手を握りながら話しかける… 「母さん…ありがとう。僕…がんばったよ…。」 「うん、うん。私にももっと顔をよく見せてくれ…おおお…、可愛いのう。うん、よくやった…。」 「爺様…ありがとうございます。」 「錫、もうあなたはこの子を抱いたの?」 「いえ、まずは母さんに抱いてもらおうと思って…まだです。」 「それはいかんな、その子を腹を痛めて産んだのはおまえさんじゃぞ。抱いてやりなさいな…母の温もりをその子にしっかりとつたえなければならんぞ。」 「そうよ、錫。記憶は作ることができるけど…はじめからあるべきものじゃないと…ね。それにあなたが一番待っていたと思うわ。さあ、抱いてあげなさい…。」 「はい…」 ぎゅっ…と徐錫は自分の子を抱き上げました…顔全体から嬉しさを隠し切れない様子が伝わってきます…嬉し涙を流していました…。 私と父は顔を見合わせ…微笑みあいました。 そしてその後、私は産婆から気になることを聞きました。 胎盤にはへその緒の跡が2つあったそうです…双子だったのかな…。 でもあまり考えないことにしました、それは彼女の中で既に決着が済んでいることだったから…。 産後の容態はすこぶる良く、すぐに管理から解かれて私の家族に新たな一名が加わりました。 その名は阿贖…償いの意味を持つ子供です。 年を越したある日、阿贖を抱いて徐錫が私の部屋に入ってきました。 「あら、錫…。阿贖をつれて…何かあったの?」 「はい、実は…この子を…引き取ってもらいたいのです。」 「え…?いきなりどうして?」 「僕は…まだこの子を育て上げるだけの自信がありません…それに…まだまだ世界を見て回りたい…親父から世界を見てこいと言われ…満足するまで見たとはいえません。まことに身勝手な意見ですけれど…どうか受け入れてくださいっ!お願いしますっ。」 「…私たちは親子…あなたを危険な場所に行かせるのは少し心配だけれども…あなたには父がついていますし、何よりもあなたの意思を私は重んじるわ、錫。行ってきなさい…でも、この子の母として…必ずここに帰ってきなさい。その限りにおいて…阿贖を預かりましょう。孫を私は大事に育てましょう…」 「母さん…ありがとう…ありがとう…私のわがままを聞いてくれて…。」 翌朝、徐錫は私たち陳一族に見送られて旅立っていった… 少し広くなった屋敷を私は阿贖と歩き回りました。 この屋敷もだいぶ見慣れてきたもので、居心地が当初に比べてだいぶよくなりました。 徐錫が出て行った次の日、父が突然倒れました。 もともと病巣だった父の体…曾孫の顔と孫の門出を見られて一気に出たのでしょうか…苦しむ事無く一気に逝きました…。 その顔は今まで見たどの父の顔よりも安らかでした… その顔を見ると何故だか私は涙が止まりませんでした… 思えば人にはそれぞれの幸せがありそれをそれぞれ追い求め、生きているのかもしれません。 死の瞬間まで人はそれを追い求めるものなのでしょう…だからこそ、伯益はしたい放題をして…父は君主に尽くし、かの香壇さんは武帝の面影を追い、徐錫は放浪するのでしょう…。 私は…何なのでしょう…人々の笑顔が見たいから…?いえ、そんな大それたことではありません…ただ一人の笑顔を守りたいために…私は生きているのかもしれません。 それでいいんです…今、手の中で眠るこの子の笑顔のために…私は生きているのです。 生きるための剣の必要にならない時代の到来を願って…いえ、そういう世をこの子のためにも作るために…私は生きているのです。 1週間後、私の耳に徐錫が人を殺して消えたという情報が入ってきました。 潁川で父と祖母の墓参りの最中…それを罵った相手を斬ったとのことです…。 「そう・・やっぱり錫はそういう子なのよね。一箇所にとどまってはいられない…。そういう子よ…困ったものね、あなたもそうなるのかしら、阿贖。」 私は阿贖を抱きかかえながら…洛陽の町を散歩した…。 贖罪の子…阿贖…この子の人生に幸多からんことを… 徐錫…あなたは帰ってきてくれるわね…私の…大事な…大事な娘…。 企画TOPへ |